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和辻と「偶像の再興」・その2 子安宣邦のホームページ 2015年12月25日

子安



 和辻と「偶像の再興」・その2



子安宣邦のホームページ 2015年12月25日

〈大正〉を読む・13           

和辻と「偶像の再興」・その2               子安宣邦

   ー津田批判としての和辻「日本古代文化」論

1 津田の記紀批判

「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と和辻が『日本古代文化』に書いたのは大正9年である。すでに津田の『神代史の新しい研究』(大正2年)も、その続編である『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8年)も刊行されている。記紀によってわれわれは皇室と国家とそして民族の歴史的な起源なり成立をいうことができるのかという問いを、津田ははじめて真っ正面から突きつけたのである。この津田による記紀批判が導いた「結論」は、日本近代史において学問的・思想的言説がもたらした最大の事件であったといっていい。津田は「記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう」といい、また「国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑いは無からう」[1]ともいい切るのである。この津田による記紀批判の「結論」はさらに重大な言葉をもたらしている。

「要するに、記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺しはじめられた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。」

記紀は皇室とそれを中心とした国家の起源を、しかも「後人の述作」によって語り出すものであって、決して民族の由来を語るものではないと津田はいう。「記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐた」という津田の言葉は、記紀の神代史および上代史に天皇命すめらみこととともにわが民族の生成する物語を読み取ろうとする民族主義的ロマンチシズムに冷水を浴びせるものであった。ここには皇室の起源と民族あるいは国民の起源とを一体視しない、きわめて健全で、考えてみれば当然の視点がある。そもそも明治の天皇制国家の創設ということが天皇と民族・国民との起源を一体視させるのであって、明治以前にそのような見方があったわけではない。天皇と民族との一体化を考えたのは『古事記』の再発見者である本居宣長ぐらいだろう.津田には明治が作り出す天皇制国家神話に簡単には与しない何かがあるようである。その何かとは、明治初期の青年たちの内に流れていった平民−国民主義的血潮だとここではいっておこう。彼に『文学に現はれたる国民思想の研究』を書かせるのはこの平民−国民主義である。

「こんな風であるから、民間に叙事詩は発達しないで、其の代り官府で神代史が作られたのである。神代史は官府もしくは宮廷の製作物であつて国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであつて伝誦したものでは無い。従つて又た知識の産物であつて、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有つて作られたものであつて、自然に成り立つた国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。」[2]

これは津田の「神代史」の諸研究とほとんど同じ時期に刊行された『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』の第二章「文学の萌芽」における文章である。記紀の「神代史」とは、「国民生活の表象、国民精神の結晶ではない」と決然という津田の口調に注目すべきであろう。これは津田においてのみの聞きうるような、日本近代史における一回的な言葉だと私は見ている。21世紀日本においてなお国民文学的古典としてもてはやされる『古事記』の繁栄を見よ。かつて日本の公権力が抑え込んだあの津田の記紀批判の言葉を、現代の日本人は忘却の押入れに深くしまい込んだままにしているのである。


2 偶像の再構築

和辻の「日本古代文化」研究とは、津田の記紀批判という偶像破壊を受けてなされた偶像再興の作業である。記紀における神代史・上代史の記述が後人の創作になるものであることは、「もう疑の余地がないと思ふが」と津田の記紀批判を受け入れるかのようにいいながら和辻は反転する。「たとへ一つの構想によつてまとめられた物語であつても、その材料の悉くをまで空想の所産と見ることは出来ぬ」と和辻はいうのである。もちろんそうだ。津田が記紀の「神代史」を後人の編述になる「作り物語」というとき、そこに編み込まれた説話・民話の類いがすべて後人によって創作されたなどといっているのではない。一定の意志をもった後人の編述を創作といっているのである。その創作的意志の遂行の過程で説話の原形もまた変容されるのである。説話は作為をもって「神代史」に編み込まれるのである。それを明らかにするのが津田の詳細な本文批評をもってした記紀批判である。津田がいう「神代史」の編述を貫く後人の創作意志とは、皇室の創成を神話的起源に由来する創成史として、いいかえれば高天原の主宰神である日神を皇祖神とした皇室の創成史として、すなわち「神代史」として語り出そうとする創作意志である。

 だから津田の記紀批判は、皇祖神を中心とした皇室の思想を「神代史」の骨子として明らかにするのである。皇室の存在は津田の記紀批判によって記紀の創作意志との相関のうちに置かれることになるのである。それは津田自身の皇室観とかかわることではない。それは「神代史」を「作り物語」とする津田の文献批判の論理、私が〈脱神話化〉という記紀批判の論理に由来することである。津田の記紀批判は、たしかに神話的起源をいう天皇制国家権力にとって禁止されねばならない学術的言論であった。そして和辻にとっても津田の記紀批判は、いま始まる再興の作業が過去に葬るべき偶像破壊を意味したのである。

偶像破壊とは人びとの奉じる神を殺すことである。偶像の再興とはその神を再び祭壇上に奉じることである。津田の記紀批判は神を殺したわけではない。神を裸にしてしまったのである。日本の神がまとっていた民族的、共同体的な〈神話〉的装いを彼ははぎ取ってしまったのである。それが『記紀』の〈脱神話化〉である。『記紀』は皇室の成立を語っても、民族の成立を語るものではないと津田はいった。『記紀』の「神代史」とは、国民の精神の結晶というべきものではないともいった。それを奉じる人びと(民族・国民)から切り離された神とは、殺されたにも等しいというべきだろう。

和辻は津田の記紀批判を偶像破壊だとした。彼は破壊された偶像を再興しようとする。ではどのように再興するのか。はぎとられた民族的、共同体的装いをもう一度日本の神々に着せることによってである。神代史に編み込まれた説話や民話からもう一度、それらを語り伝えた人びとの息づかいを聞き出すことによってである。神が再び共同体の神として、神と民族とが一つのものとして神代の物語から読み出されたとき、偶像は再興されたといえるだろう。『古事記』がもう一度発見されなければならないのである。


3 『古事記』の復興

 和辻は『日本古代文化』における『古事記』再評価の章の冒頭でこういっている。「古事記を史料として取扱ふためには厳密な本文批評を先立てねばならぬ。しかしこれを想像力の産物として鑑賞するつもりならば、語句の解釈の他に何の準備も要らない。しかも古事記がその本来の意義を発揮するのは、後者の場合に於てではないだらうか。」この文章が津田による記紀の解体的批判後のものであることは明かである。だがここでは津田の記紀批判は和辻なりに理解されている。和辻は津田の記紀批判における厳密詳細な本文批評を『記紀』の史料性の吟味にかかわる作業としている。これは『記紀』の「神代史」を後人の創作とした津田の見方を、恐らく意図的に欠落させている。和辻は津田の解体的批判は『記紀』を歴史的史料としてみなすことの上になされたものであった。歴史的史料とみなすかぎり、「帝紀」に対して「旧辞」的な説話的部分を多くもつ『古事記』の史料的な意味はほとんど津田によって否定されると和辻は解するのである。こう解することから津田批判としての和辻の『古事記』復活の論理が展開されることになる。『古事記』が歴史的資料としてではなく、文化的あるいは文学的資料としてみなされるならば、その意義は別個に、積極的に見出されるはずだと和辻はいうのである。和辻はここで「想像力の産物」としてみなすならばという。和辻のいう想像力とは恣意的な空想をいうのではない。民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等であるような、民族の文化的な統一を作り出す文学的創作力をいうのである。『古事記』をこの意味での「想像力の産物」とするならば、その意義を解するには文学的解釈力だけがあればいいと和辻はいう。『古事記』の復興は文学的解釈力を自負する和辻によって担われるのである。

『古事記』とは日本の古代史のどこにもそれを歴史上に繋ぎ留める釘をもたない、いわば歴史的には浮游するテキストである。その成立は太安万侶の序という自己証明しかもっていない。その序には撰録が成って安万侶が『古事記』を元明天皇に献上したのは「和銅五年正月二八日」だと記されている。和銅5年とは712年である。だがこの年における『古事記』の成立を傍証するものは何もない。ちなみに『日本書紀』は養老4年(720)に成ったことが『続日本紀』に記されている。『古事記』が日本の最古の古書として見出され、その意義が評価されるに至ったのは本居宣長によってである。宣長は太安万侶の序を真実のものと信じた。「序は安万侶の作かけるにあらず、後の人のしわざなりといふ人もあれど、其は中々にくはしからぬひがこころえなり。すべてのさまをよく考るに、後に他人あだしびとの偽り書る物にはあらず、決うつなく安万侶朝臣の作るなり。」(『古事記伝』二之巻)と宣長はいう。「序は恐らくは奈良朝の人の追て書し物かとおぼゆ」と宣長に告げたのは師である賀茂真淵であった[3]。宣長は師に逆らう形で安万侶の序を真としたのである。これを真とすることは何を意味するのか。そのことはまず和銅5年(712)の『古事記』の成立を真とすることを意味する。さらに重要なことは、『古事記』成立の背後に天武天皇(命令者あるいは原形的古記録の選定者)と稗田阿礼(誦習者)とそして太安万侶(最終の撰録者)という統一的な意志をもった作者たちが存在することを序によって認めることである。古の事を古の言にしたがって正しく後に伝えようとする意志が『古事記』成立の背後に読み取られることになるのである。『古事記』テキストの成立過程に天武天皇の命にしたがってなされた稗田阿礼による誦習の過程を認めることは、このテキストがもつ古代性をいっそう確実にするのである。師に逆らってこの安万侶の序を真とすることによって、宣長の大著『古事記伝』ははじめて成るともいえるのである。

だが『古事記』とは危うい書である。虚心にこの安万侶の序を読むならば、これが何かを隠すがごとく装われた文章であることを直ちに認めるはずである。装飾的漢文の作為をにくむ宣長がそれに気づかなかったはずはない。しかし宣長はなおかつこれを真としたのである。宣長にこれを真とさせたのは、『古事記』の「旧辞」的世界がもつ古代性への信であったのかもしれない。『古事記』の「旧辞」的世界がもつ古代性への宣長の信が、安万侶の序をも真実とさせたのだろう。私がいいたいことはこうだ。『古事記』の古典性とは、後世における再評価的な発見者なり解釈者の存在と相関的だということである。『源氏物語』は宣長をまたずともわれわれにとっての古典でありえている。だが『古事記』は宣長なしにはわれわれにとっての古典ではない。『古事記』に対する宣長のこの位置を近代で継承し、再現するのが和辻だと私には思われる。

天武天皇は「帝紀を撰録し、旧辞を討覈とうかくして、偽りを削り実を定めて、後葉のちのよに流つた」えることを欲せられ、稗田阿礼に「勅語して帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習」わしめたと太安万侶の序はいっている。後に安万侶はこれによって『古事記』を選録し、元明天皇に献上したというのである。和辻はこの安万侶の編集作業をこう考える。「もし安万侶が何らか手を加へたとすれば、それは従来離れてゐた帝皇日継と先代旧辞とを混合したことに過ぎないであらう。・・・古事記を芸術品として見るときには、右の混合は全体の統一に対する最も不幸な障害である。然らば安万侶は旧辞の芸術的価値を減殺する以上に内容的には何事をもしなかつたわけになる」と和辻はいうのである。安万侶の編成作業とは『古事記』がもつ「芸術的形式を破壊したに過ぎ」ないのである。ではもう一度『古事記』を高い芸術性において輝かすためにはどうするか。

「でもし我々が現在の古事記から帝皇日継と先代旧辞とを分離するならば、(即ち誤つて混合せられた系譜と物語とを、──散文的な現実の記録と想像から出た詩的叙述とを、──自然主義的記述と理想主義的記述とを、分離するならば、)そこに現はれた先代旧辞こそは、継体欽明朝に製作せられた一つの芸術的紀念碑なのである。」

『古事記』という一つのテキストから旧辞的部分だけを分離するというのはまったくの恣意である。だがこの恣意的操作によってはじめて『古事記』は現代に芸術的価値をもって甦るものであることを和辻のこの言葉は教えている。『古事記』とはたしかに危うい書なのだ。だが私が和辻による『古事記』再評価をめぐってのべてきたのは、『古事記』のこの危うさをいうためではない。和辻の『古事記』再評価によって、何が、いかにして甦るかである。何が、いかにして再興されるかである。


4 日本民族の読み出し

和辻は『古事記』の混合テキストから帝皇日継を洗い去ったところに「先代旧辞」という「一つの芸術的作品」を認めるのである。『古事記』の旧辞とされる神話・民話はただ寄せ集められた多数としてあるのではない、和辻はそれらを一つの芸術的な作品として見るのである。これを一つの作品とすれば、そこに作者が存在することになるだろう。「その作者が(単数であると複数であるとを問はず)上代のすぐれた芸術家であつたことを認める」と和辻はいうのである。その芸術的な価値においては『日本書紀』は『古事記』にはるかに及ばないと和辻はいう。その『日本書紀』について和辻は作者をいったりはしない。では『古事記』の「先代旧辞」の作者とはだれか。宣長はすでに和辻がいう「先代旧辞」の作者を天武天皇と稗田阿礼の二人に見ていたように思われる。和辻もまたこの二人を作者としていたのかもしれない。だがこの二人に見る作者とは、多くの異本群からこの「先代旧辞」を最良のものとした選定者であり、その旧辞の言語を誦習し、記憶にとどめた宮廷の語り部ではないのか。本当の作者とはその旧辞の中にこそいるのではないか。神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』の「先代旧辞」を和辻が一つの芸術的作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。

『日本古代文化』の冒頭の章「上代史概観」で和辻は、「我々の上代文化観察はかくの如き「出来上つた日本民族」を出発点としなければならぬ」といっている。彼は考古学的遺物をはじめ歌謡、神話、信仰、音楽、造形美術などによって上代文化を考察するが、その文化の共同的形成主体である日本民族がすでに出来上がっていることを前提にするというのである。混成せられた民族がすでに「一つの日本語」を話すところの「日本人」として現れてきていることを前提にするというのである。『古寺巡礼』の作者和辻にしてはじめてなしうるような日本上代文化の考察とは、芸術性豊かな日本民族を文化的遺物によって読み出すことでもあるのだ。『古事記』とはこの日本民族の最初にして最古の芸術的作品である。昭和の偶像はこのようにして再興された。




[1] ここに引くのは『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8)を改訂した『古事記及日本書紀の研究』(大正13)の「結論」の章からである。


[2] 『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』(岩波書店、大正5年)は戦後改訂され、『文学に現はれたる国民思想の研究 第一巻』として昭和26年に岩波書店から刊行された。ここの引用は『津田左右吉全集』別巻第二所収の大正5年初版本によっている。なおこの引用冒頭の「こんな風であるから」とは、漢文の知識も漢字利用も少数の貴族のものであって、国民の多数のものではなかった上代日本の風をいっている。

[3] 真淵が宣長宛書簡(明和5年3月13日)でいっている(『校本賀茂真淵全集』思想篇下、弘文堂書房、1942。


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「なっとく大祓詞」(1~5)高天原 出口王仁三郎・言霊解 [You-Tube動画]

[You-Tube動画]

 「なっとく大祓詞」(1~5)高天原 出口王仁三郎・言霊解



「なっとく大祓詞」(1/5)高天原 出口王仁三郎・言霊解

https://youtu.be/AsN6TKbO5mA
 2015/04/10 に公開 13分00

 古事記、大祓詞は現代人が漢字で解釈しても手に負えません。出口王仁三郎の言霊・日本­人のこころで解釈したものが、もっとも共鳴できました。
 動画紙芝居でより分かりやすく­お伝えします。1/5は高天原です、タカマガハラとは読まないよう古事記に書いてあっ­て「タカアマハラ」と読みます。動画紙芝居目次TOPはこちらhttp://jinseitetugaku.blogspot.jp/201...

「なっとく大祓詞」(2/5)高天原 出口王仁三郎・言霊解

https://youtu.be/k8In67OysbA
 2015/04/10 に公開 11分45

 「大祓詞」2/5は大日本日高見国と天津罪国津罪です。大日本日高見国がどこであるの­か誰もわかりませんでした。
 「尿戸(くそへ)」や「「己が母を犯せる罪、己が子を犯せ­る罪」とか、現代人がこの漢字を見ると・・・とてもと、みんなこの部分は削除していま­す。
 ところが、言霊解釈は違うのです!!動画紙芝居目次TOPはこちら

「なっとく大祓詞」(3/5)祭政一致 出口王仁三郎の言霊解

https://youtu.be/1QnE-rKe-QI
 2015/04/23 に公開 7分48

 なっとく大祓詞(3/5)は祭政一致です。霊主体従の正しい言葉で政治を行い。祭りは­易(占い)も霊性心で行う。
 これが祭政一致である。天に働きかけるときに用いられるの­が「天津祝詞太祝詞」である。
 天津祝詞の太祝詞はいまだに諸説入り混じっているが、平­田篤胤、出口王仁三郎によって決着済みでした!!
 動画紙芝居目次TOP

「なっとく大祓詞」(4/5)琵琶湖~海 出口王仁三郎・言霊解

https://youtu.be/n9udyKkHBpw  
 2015/04/24 に公開 8分21

 大祓詞(4/5)は琵琶湖~海です。肉体を具備された神の出生は琵琶湖の竹生島からと­説いています。罪ごとは琵琶湖から淀川を通って海にでます。
 動画紙芝居目次TOPはこ­ちらhttp://jinseitetugaku.blogspot.jp/201...

「なっとく大祓詞」(5/5)祓戸大神 出口王仁三郎・言霊解
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https://youtu.be/OWxq43L-k5I
2015/04/24 に公開 8分14

 「なっとく大祓詞」の最後は「祓戸大神」(祓戸四柱)の神々です。琵琶湖から鳴門の渦­潮までが「日本の浄化システム」のモデルとも言われます。
 動画紙芝居目次TOPはこち­らhttp://jinseitetugaku.blogspot.jp/201...


No 12 2014 0629 イエズス会の日本侵入① ~② [You-Tube動画]

[You-Tube動画]


 No 12 2014 0629 イエズス会の日本侵入① ~② 
 ビル・ヒューズ牧師


No 12 2014 0629 イエズス会の日本侵入①

https://youtu.be/Q52LBPUR1hA
 2014/06/30 に公開 1時間07分12

 講師:ビル・ヒューズ牧師

 米国在住。Truth Triumphant Ministries (真理は勝利する)の主幹
 歴史の重大事件の背後に働く秘密結社の研究に精通している­。著書に「The Secret Terrorists」、「The Enemy Unmasked」がある。

No 13 2014 0630 イエズス会の日本侵入②

https://youtu.be/LzjkOvh6LEo
 2014/06/30 に公開 1時間05分17

 サンライズ ・ミニストリー
 〒905-0428 沖縄県国頭郡今帰仁村今泊1471
 TEL 0980-56-2783 | FAX 0980-56-2881
 E-mail contact@srministry.com | website http://srministry.com


日本のメシア出現と満州ユダヤ国家建設計画 

[You-Tube動画]



 日本のメシア出現満州ユダヤ国家建設計画


MU(ムー)

日本のメシア出現と満州ユダヤ国家建設計画

https://youtu.be/YHucrq7apQM 
 2015/01/18 に公開 23分55


どこから来たの?日本人 〜文明のあけぼの〜【CGS 日本の歴史 1-1~1-2】 [You-Tube動画]

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 どこから来たの?日本人 〜文明のあけぼの〜【CGS 日本の歴史 1-1~1-2 】


どこから来たの?日本人
〜文明のあけぼの〜【CGS 日本の歴史 1-1】

https://youtu.be/tfijELjnQXU
 2015/06/26 に公開 13分09

 本日から「目からウロコの日本の歴史」本編第1章に入っていきます。本章「文明のあけ­ぼの」のテーマは日本における文明の始まりについて主に縄文〜弥生時代について解説し­ていきます。

 今回は、最も根本的なところで、日本人がいつから・どこから来たのかを神話や人類進出­のルートから考察します。

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世界最古の文明は日本から? 【CGS 日本の歴史 1-2】

https://youtu.be/7DK8zIy2Fzg
2015/07/03 に公開 16分39
 今回は日本の文明の興りについてご紹介します。
 日本列島では約11万年前には打製石器­が、3万年前には磨製石器が使われていました。
 そして世界最古の土器は、日本?それとも中国?

 しかし中国であるという確たる証拠はあ­りませんでした。
 また、石器に関しても少し認識がおかしい様です・・・。
 気をつけたいのは、世界最古であるから日本は偉いのだ、という事ではありません。
 正し­く認識し、正しく教える事が大切です。



日本がすべての文明の発祥地であった / 天照大神、聖徳太子、空海の正体+日蓮の謎の本尊 byはやし浩司 [You-Tube動画]

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 日本がすべての文明発祥地であった / 天照大神、聖徳太子、空海の正体+日蓮の謎の本尊 byはやし浩司


631 天照大神、聖徳太子、空海の正体
+日蓮の謎の本尊byはやし浩司

https://youtu.be/TrDIqlqi4WE
 
2014/01/02 に公開 25分17
631+629
天照大神、聖徳太子、空海の正体+日蓮の謎の「御筆御本尊」
Who is Amaterasu-oomikami, and true charcters of Shotoku Taishi and Ku-Kai+Nichiren's paper sacred image of Saints in Mysteries

Mystery of Ku-Kai and Shotoku-taishi
空海と聖徳太子の謎

Hiroshi Hayashi++++++++++++はやし浩司

天照大御神の正体を知るヒントは、日蓮の最重要の本尊の中にあったという話です。

Hiroshi Hayashi++++++++++++はやし浩司

天照大神は、アフラ・マズダ―であった。
Amaterasu/oomikami is Ahura Mazda
True Character of Shotoku Taishi...He was a messenger of Mithrasism.
聖徳太子の正体、聖徳太子はミトラ教(ミトラス教)のメッセンジャーであった。

No one is allowed to use my ideas in any case without my personal permission, for which I need your cooperation.
Thank you.

アイデアの盗用、転用、流用は禁止です。

Hiroshi Hayashi

No one is allowed to use my ideas without my permission.
どなたもこのビデオの中で私が示しているアイデアを使用することはできません。

Jan.3rd,2014
2014年01月03日

1034+ 日本がすべての文明の発祥地であったJapan Land is Birthplace of Whole Civilizations

https://youtu.be/MtI2KuUrqBM
 2014/08/31 に公開 

1034(1033改)
History of Gods+Japan-Land is the Birthplace of Whole Civilizations(神々の歴史+日本がすべての文明の発祥地であった)
Origin of Humans by Z. Sitchin, Enki vs. Enlil(シッチン説による人間の起源、エンキとエンリル)

Hiroshi Hayashi++++++++++++はやし浩司
And, behold, the glory of the God of Israel came from the way of the east,.... The God of Israel is Jehovah the Father, the covenant God of literal Israel;

見ろ、イスラエルの神の栄光は、東洋(the East)からやってきた。イスラエルの神はエホバ(Jehovah)、すなわち、父­なるイスラエルの神である。(エゼキエルEzekiel 43:2)

Hiroshi Hayashi++++++++++++はやし浩司

Jomon Period in Japan is the dawn-time for all civilizations of the world. First all Gods came down onto this Japan-Land and it was beginning of the history for humans.
縄文時代は、世界の文明の夜明けだった。世界の神々は、まずこの日本の地に降り立った­。それが世界のはじまりだった。なぜこの日本には、遮光土偶をはじめ、宇宙服の遺物が­多いのか。私たちはまずその謎解きから始めるべきではないのか。
Ahura Mazda (or his subject with his authority) came to Idoziri, Nagano, Japan
Mystery of Do-ki and Do-gu(Earthenware and Clay Figures in Japan)
縄文文明の謎(縄文土器・土偶の謎)
Mystery of Clay Figures and Earthenware and its answer at Idoziri Acheological Museuma, Nagano, Japan. Jomon civilization is Father of other civilizations around the Pacific Ocean, including such as Maya, Inca and American Indians, and ALL!

どなたもアイデア、理論の盗用、流用、転用はできません。とくにマスコミ関係の方は、­固く禁じます。No one can use my ideas and theories in any case.

はやし浩司
Hiroshi Hayashi
Taka-san
Ransuke
Aug. 31th , 2014
2014年08月31日


宇野正美 北朝鮮は日本人が造った 1~2 [You-Tube動画]

[You-Tube動画]



 北朝鮮日本人が造った 宇野正美 1~2

宇野正美 北朝鮮は日本人が造った 1/2

https://youtu.be/COyQIrc5Hv0
 2015/09/04 に公開 1時間09分30 

宇野正美 北朝鮮は日本人が造った 2/2

https://youtu.be/j8eBrzrpsxE

  2015/09/04 に公開 47分39



短歌本質成立の時代 万葉集以後の歌風の見わたし 折口信夫 青空文庫 2007年5月5日作成

おあ

 短歌本質成立の時代 万葉集以後の歌風の見わたし 折口信夫



青空文庫 2007年5月5日作成

     一 短歌の創作まで

 短歌の形式の固定したのは、さまで久しい「万葉集以前」ではなかつた。飛鳥末から藤原へかけての時代が、実の処此この古めいた五句、出入り三十音の律語を意識にのぼせる為の陣痛期になつたのである。

 囃し乱ヲサめの還し文句の「ながめ」方が、二聯半に結著したのも此頃であつた。さうして次第に、其本歌モトウタなる長篇にとつて替る歩みが目だつて来た。記・紀、殊に日本紀、並びに万葉の古い姿を遺した巻々には、其その模様が手にとる如く見られるのである。かうした時勢は、宮廷の儀礼古詞なる大歌オホウタ(宮廷詩)にも投影した。伝承を固執する宮廷詩も、おのれから短篇化して行つた。さうして民間に威勢のよかつた短歌の形が、其機運に乗り込んで来た。

 かうして謡ひ物としての独立性を認められた短歌は、其それ自体の中に、本歌モトウタ及び、助歌反乱の末歌スヱウタの二部を考へ出して、ながめ謡ひを以て、間を合せた。「57・57・7」から「57・5・77」へ、それから早くも、平安京以前に「575・77」に詠み感ぜられる形さへ出て来たのは、此為であつた。

 第二聯の5の句が、第一聯の結びと、第二聯の起しとに繰り返された声楽上の意識が、音脚の上に現れて、句法・発想法を変化させて行つた。くり返しや、挿入の囃し詞ことばは自由に使はれても、主要な休止の意識は「575・577」の形を採らせた。此には、一つ前の民謡の型として、尚なほ勢力を持ち続けて居た結集ケツジフ唱歌出身の旋頭歌セドウカの口拍子が、さうした第三句游離の形と発想とを誘うたのである。それが更に、短歌分化の根本律たる末句反乱の癖の再現した為に、最後に添加せられた7の囃し乱ヲサめの力がはたらきかけて「575・777」と言つた諷誦様式を立てさせた。而も最後の一句は、百の九十九まで内容の展開に関係のない類音のくり返しであつた。

 歌が記録せられる様になるに連れて、此即興的な反覆表現はきり棄てられて、完全に「575・77」の音脚が感ぜられる様になつて来る。かうなつて来ると、声楽の上では、旋頭歌と短歌との区劃が明らかでなくなる。さうして、尚行はれてゐる短歌の古い諷誦法「57・5・77」型の口拍子が、却かへつて旋頭歌の上に移つて来て「57・7・57・7」又は「57・7・577」或は「57・75・77」となり、遂には「5・77・577」と言つた句法まで出来て行つた。

 短歌が、声楽から解放せられて、創作物となり、文学意識を展ひらいて行つたのは、亦また声楽のお蔭であつた。私は此分離の原因の表面に出たものを「宴遊即事」にあると見てゐる。新室ニヒムロの宴ウタゲ及び、旅にあつての仮廬祝カリホホぎから出て来た「矚目吟詠」は、次第に叙景詩を分化して来た。列座具通の幽愁の諷誦が、既に意識せられて居た抒情発想の烈しさを静め、普遍の誇張から、自己の観照に向はせて居た。其処そこへ、支那宮廷の宴遊の方式と共に、厳カザり立てた園池・帝徳頌讃の文辞が入りこんで来たのだ。文化生活の第一条件は、宮廷の儀礼・集会を、先進国風に改めることであるとした。

 歌垣を飜訳して踏歌と称し、宮廷伝来の春のことほぎの室踏みの歌舞をさへ、踏歌と改称する様になつた。朗詠の平安の都に栄えた理由として、踏歌タウカの節セチの「詠」に美辞を練つた事を第一に言ふべきである。而も踏歌の夜の詞曲は、唐化流行頂上の時勢にも、やはり大歌や、呪詞が交へ用ゐられた。

 朗詠が、異様に、長目な音脚意識と、華やかで憑しい音調とを刺戟して、和漢混淆文の発生を促した様な事情が、短歌の側でも見られるのである、宮廷・豪家の生活に、神事の「解忌トシミ」として行はれた直会ナホラヒの肆宴トヨノアカリ以外にも、外国式の宴遊の儀が加へられて来た。踏歌の場合に限らず、かうした宴遊の酒間・水辺にも、即事の唱和カケアヒがあり、歌垣系統の勝負争ひもあつたらしい。男と女との間にも、さうした歌問答が行はれた痕は、万葉に明らかに見えてゐる。かう言ふ間に、相手なしに独吟する者が、次第に殖えて来た。かうした宴遊の場に於てくり返された労苦が積りつもつて、短歌成立前から兆きざして居た創作動機を、故意に促す文学態度が確立した訣である。

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和辻と「偶像の再興」・その1 子安宣邦のホームページ 2015年12月15日

子安


 和辻と「偶像の再興」・その1


子安宣邦のホームページ 2015年12月15日

〈大正〉を読む・12            子安宣邦

和辻と「偶像の再興」・その1
  ─津田批判としての和辻「日本古代文化」論

1 偶像の破壊
 
『日本古代文化』の大正9年初版[1]の序で、「在来の日本古代史及び古代文学の批評」は彼にとっては「偶像破壊の資料」に過ぎなかったといっている。少年時代以来、和辻はさまざまな理由から「日本在来のあらゆる偶像を破壊しつくして」きたという。明治22年(1889)生まれの和辻にとってその青少年期は日露戦争の戦後という時代であった。日本近代史は最初の戦後をその時期に経過し、人びとも最初の戦後をその時期に体験したのである。日本は日露戦争とともに帝国主義的近代に入っていく。和辻ら明治後期の青年における近代意識の形成は、眼前の近代への批判意識の生起とともになされるものであった。あるいはむしろ批判意識とともに近代が彼らに自覚されるのである。青年和辻の最初の著書が『ニイチェ研究』であることは象徴的である。彼らは近代にそれが作る偶像の破壊を通して向き合うことになるのである。

 和辻にとって「偶像破壊の資料」に過ぎなかったという「日本古代史及び古代文学の批評」とは何を指しているのか。津田の記紀批判の最初の著作『神代史の新しい研究』が公刊されたのは大正2年(1913)である。『古事記及び日本書紀の新研究』の刊行は大正9年(1919)である。その間に津田は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の「貴族文学の時代」「武士文学の時代」「平民時代・上」を刊行している。津田のこれらの書が和辻にとって重要な意味をもってくるのは、むしろ和辻の「偶像の再興」期における和辻の批判的文脈においてである。和辻の「偶像破壊の資料」というのは、津田のこれらの書に具現化されていった当時の史学的・文学的「批評」作業をいうのだろう。和辻がいう「批評」とは古典的文献に対する「高等批評」の謂いであり、文献学的なテキスト批判、史料批判を意味している。明治末年から大正にかけての時期、古典的文献・古代史料のテキスト批判的な吟味が古代史・古代文学研究の基本作業として重視されていった。津田の『神代史の新しい研究』の刊行に先立つ時期に白鳥庫吉が「『尚書』の高等批評」[2]という論文を発表している。白鳥は津田を先導する文献批判的方法意識をもった最初の東洋史学者である。同じく文献批判的方法意識をもった内藤湖南が東洋史講座開設のために京都大学に赴任するのが明治40年(1907)である。彼らによって新たな東洋学オリエンタリステイックあるいは支那学シノロギーが成立するのである。

 この支那学の成立とともに四書五経といわれる儒教経書の原典性そのものが批判的に吟味されるようになる。聖なる成立時に鎮まっていた『論語』の原典性は容赦ない文献批判によって、後世的な長い編纂過程からなる人為的なテキストへと変容・解体されていくのである[3]。それはまさしく偶像の破壊である。この偶像破壊的な文献批判が白鳥を介した津田によって『古事記』『日本書紀』という日本の国家的原典に向けてなされていくことになる。

 『記紀』とは明治日本において国家の原初的な成立を証す根元的史料であった。『記紀』をこの意味での根元的史料としたのは明治国家である。明治における近代国家としての日本の成立が『記紀』をこの根元的史料として要請したのである。そこから神話における「神武創成」が日本国家の歴史的紀元とされることになった。『記紀』とは日本近代が「日本国家」とともに作り出した偶像である。この『記紀』という偶像に向けていま文献批判という偶像破壊的方法が用いられようとする。これは近代国家日本が直面する逆説的な事態である。あるいは王政復古的な日本近代がもった逆説というべきかもしれない。文献批判・史料批判を前提にした近代的な歴史研究・古代研究の成立が、近代が「国家」とともに作り出した「国家的原典」という偶像を破壊しようとするのである。それは明治末年から大正にかけての時期である。24歳で『ニイチェ研究』を処女出版した青年和辻も、この偶像破壊的な時代的エートスの中にいたのである。

2 偶像の再興

 「日本文化、特に日本古代文化は、四年以前の自分にとつては、殆ど「無」であつた」と前に引いた『日本古代文化』の「初版序」で和辻はいっている。「四年以前」とは和辻が『ニイチェ研究』を出した時期、明治末年から大正の初年にかけての時期である。その時期、『記紀』の日本古代文化は彼にとってほとんど無かったのである。顧みるべき何物でもなかったのである。それは『日本古代文化』が出る大正9年(1920)に先立つ僅か四年以前の時期であった。津田による『記紀』文献批判的な偶像の解体が始められていったのもその時期である。だから和辻は「日本古代文化」の価値を再発見しようとするこの書で、「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と書いているのである。明らかに和辻は津田の日本神代史を「作り物語」とする見方を認めているのである。だがそのことを告げる和辻の言葉は、「もう疑の余地がないと思ふが」と反転し、「たとへ一つの構想によつてまとめられた物語であつても、その材料の悉くをまで空想の所産と見ることは出来ぬ」(「上代史概説」5)というのである。これは『記紀』の再発見的読みの可能性をいう言葉である。和辻の『日本古代文化』は、一度破壊された『記紀』という偶像の再興を図ろうとする書である。だからかつて偶像破壊者であった自分はいまここでは「すべてが破壊しつくされた跡に一つの殿堂を建築すべく、全然新しい道を取らなくてはならなかつた」(初版序)と書くのである。和辻はいまや偶像の再興者になったのである。

 若き日に偶像破壊者であった和辻は転向した。大正7年(1918)に刊行した評論集『偶像再興』(岩波書店)の冒頭の「序言」でいっている。「予は当時を追想して烈しい羞恥を覚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあつても、とにかく予としては必然の道であつた。さうしてこの歯の浮くやうな偶像破壊が、結局、その誤謬をもつて予を導いたのであつた」[4]と。羞恥とともに回想される偶像破壊とは、自己の未成熟からくる模倣的な破壊衝動であったのか。ともあれ彼は転向する。そして偶像は再興さるべき権利をもっていると書くのである。「破壊せらるべき偶像がまた再興せらるべき権利を持つといふ事実は、偶像破壊の瞬間においてはほとんど顧みられない。破壊者はただ対象の堅い殻にのみ目をつけて、その殻に包まれた漿液のうまさを忘れている。」

 少年和辻をかつて偶像破壊へと向かわせた理由について、「数知れぬさまざまな理由」と『日本古代文化』の「初版序」に和辻は書いている。ではその彼を偶像の再興者へと転向させた理由は何か。「一人の人間の死が偶然に自分の心に呼び起した仏教への驚異、及び続いて起つた飛鳥奈良朝仏教美術への驚嘆が、はからずも自分を日本の過去へ連れて行つた」と和辻は同じく「初版序」に書いている。かつての彼にとって無きに等しかった「日本古代文化」の再発見に彼を導いたのは「一人の人間の死」であったといっているのである。和辻の精神の転換を導くほどの重い意味をもった「一人の人間の死」とは何であったかを探る手段を私はもっていない。和辻の「年譜」にはそれを窺わせる記事はない。「ある子供の死(なき坂秀夫の霊に手向く)」[5]という『思想』(大正10年11月)に載った文章があるが、その「子供の死」が上の「一人の人間の死」であるかどうかは分からない。ともあれ「一人の人間の死」が和辻における精神的な転換を導いたのである。『偶像再興』に「転向」を記したその翌大正8年に和辻は『古寺巡礼』を出版する。和辻の名を今に留める名著である。『日本古代文化』が刊行されるのはその翌大正9年である。

 和辻の人生において重い意味をもった「一人の人間の死」が彼の精神の転換を導いた。偶像の破壊者であった和辻は、再興さるべき権利をもったものとして偶像を再び見出すのである。日本の古代とその文化は、いま再発見者和辻をもつことになるのである。「一人の人間の死」は和辻の個人史をこえた重い意味を日本文化史あるいは日本近代史の上にもつことになるのである。

3 津田の記紀批判

 「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と和辻が『日本古代文化』に書いたのは大正9年である。すでに津田の『神代史の新しい研究』(大正2年)も、その続編である『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8年)も刊行されている。『記紀』によってわれわれは皇室と国家とそして民族の歴史的な起源なり成立をいうことができるのかという問いを、津田ははじめて真っ正面から突きつけたのである。この津田による記紀批判が導いた「結論」は、日本近代史において学問的・思想的言説がもたらした最大の事件であったといっていい。津田は「記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう」といい、また「国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑いは無からう」[6]ともいい切るのである。この津田による『記紀』批判の「結論」はさらに重大な言葉をもたらしている。

 「要するに、記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺しはじめられた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。」

 記紀は皇室とそれを中心とした国家の起源を、しかも「後人の述作」によって語り出すものであって、決して民族の由来を語るものではないと津田はいう。「記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐた」という津田の言葉は、記紀の神代史および上代史に天皇命すめらみこととともにわが民族の生成する物語を読み取ろうとする民族主義的ロマンチシズムに冷水を浴びせるものであった。ここには皇室の起源と民族あるいは国民の起源とを一体視しない、きわめて健全で、考えてみれば当然の視点がある。

 そもそも明治の天皇制国家の創設ということが天皇と民族・国民との起源を一体視させるのであって、明治以前にそのような見方があったわけではない。天皇と民族との一体化を考えたのは『古事記』再発見者である宣長ぐらいだろう。津田には明治が作り出す天皇制国家神話に簡単には与しない何かがあるようである。その何かとは、明治初期の青年たちの内に流れていった平民ー国民主義的血潮だとここではいっておこう。彼に『文学に現はれたる国民思想の研究』を書かせるのはこの平民−国民主義である。

 「こんな風であるから、民間に叙事詩は発達しないで、其の代り官府で神代史が作られたのである。神代史は官府もしくは宮廷の製作物であつて国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであつて伝誦したものでは無い。従つて又た知識の産物であつて、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有つて作られたものであつて、自然に成り立つた国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。」

 これは津田の神代史の諸研究とほとんど同じ時期に刊行された『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』の第二章「文学の萌芽」における文章である。『記紀』の神代史とは、「国民生活の表象、国民精神の結晶ではない」と決然という津田の口調に注目すべきであろう。これは津田においてのみの聞きうるような、日本近代史における一回的な言葉だと私は見ている。21世紀日本においてなお国民文学的古典としてもてはやされる『古事記』の繁栄を見よ。かつて日本の公権力が抑え込んだあの津田の記紀批判の言葉を、現代の日本人は忘却の押入れに深くしまい込んだままにしているのである。


歴史の不思議 6 日本史空白の150年と秘密に迫る  [You-Tube動画]

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 歴史の不思議 日本史空白の150年と秘密に迫る
  / 纒向遺跡

纒向遺跡 - Wikipedia

歴史の不思議 6 日本史空白の150年と秘密に迫る

https://youtu.be/mulAzEM4dkY
 2013/11/07 に公開 51分29


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