
永田鉄山と石原莞爾 日本陸軍・二人の天才
闇株新聞 2011年08月15日

永田鉄山―昭和陸軍「運命の男」
文春新書 早坂 隆【著】
紀伊國屋書店
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永田が持論の一つとして「長州閥の一掃」を図ったことは、これまでに幾度も触れたとおリである。
そしてその計画は充分な成功を収め、出身地域による派閥の形成という事象は陸軍内おいて大きく減じた。
永田鉄山―昭和陸軍「運命の男」よリ
.永田鉄山と石原莞爾 日本陸軍・二人の天才
本日(8月15日)は終戦記念日です。
戦争については残念ながら風化しかかっています。従って、せめて終戦記念日には日本人としていろいろ考えてみたいと思うのです。
当時の日本陸軍と海軍が、最大権力者である天皇陛下の威光を利用し、政府内での勢力争い、陸軍と海軍の勢力争い、陸軍・海軍それぞれの中での勢力争いを優先し、結局国民に多大な犠牲を強いることになる構図は、現在の官僚組織に類似するものです。
しかし本日はこの辺も控えて、日本陸軍最大の天才といわれた永田鉄山と石原莞爾について書くことにしました。2人とも歴史の教科書には出てこないのですが、そのスケールの大きさと、それゆえの運命はご紹介する価値があると思うからです。
永田鉄山は1884年生まれで、陸軍士官学校を首席で卒業し、常に軍の本流を歩き「将来の陸軍大臣」と言われていました。まさに飛び切りの「高級官僚」だったのです。
ただあまりにも優秀で、かつ人望もあったため、お決まりの陸軍の内部闘争の旗頭にされてしまいます。
当時の陸軍は、天皇親政を強化し武力による国民の支配も辞さない「皇道派」と、軍内の規律統制を重視する「統制派」に分かれて勢力争いをしていました。
どちらかというと「皇道派」は現場のたたき上げの軍人が多く、「統制派」は永田などのエリート軍人が多かったようです。
ところが1935年7月に「皇道派」の重鎮・真崎甚三郎教育総監が更迭されると、永田は翌8月に、「皇道派」の相沢三郎中佐に日本刀で斬殺されてしまいます。
真崎更迭を裏で画策したのが「統制派」の中心の永田だと思われたようです。
死亡時の役職は陸軍軍務局長で陸軍中将でした。陸軍の方針決定の中心人物だったことは間違いありません。
その後、「皇道派」の暴走は続き、翌1936年に二・二六事件が起こります。
永田亡きあとの「統制派」は東条英機が引き継ぎ、戦争にまっしぐらとなっていくのです。永田と東条の違いは、一にも二にも能力と人望の差でした。
東条一人に戦争開始の責任があったと言うつもりは全くないのですが、陸軍大臣として、また後の首相としての世界情勢を読む能力、日本をまとめ上げる能力は永田と雲泥の差であったと言わざるを得ません。
少なくとも永田が生きていたら、もう少し戦争のやり方が変わっていたのではないかと思われます。
軍務の永田に対し、実際の戦略の天才といわれたが石原莞爾です。
石原莞爾は永田より5歳年下の1889年生まれで、陸軍士官学校を次席で卒業しました。首席でなかったのは教官に対する礼儀を欠いていたからだといわれています。
一貫して作戦畑を歩き、関東軍作戦参謀として柳条湖事件・満州事変の実際の立案・指揮責任者でした。23万人もいた張学良軍に対し、わずか1万数千人の関東軍で広大な満州を占領したのです。
しかし石原の満州国建国の基本理念は、従来の欧米型の植民地支配ではなく、日本でもなく中国でもない満州国を独立させてアジアの同盟国として、欧米に対峙しようとするスケールの大きいものだったようです。
後年、日本の政治家の一部が、中国への「侵略」に対し一方的に「非を認め」、ひたすら「お詫び」と「反省」を繰り返しているのです。石原の基本理念が全く理解されていないのです。
皮肉ですが、そういった政治家に近いと思われる加藤紘一衆議院議員は、石原莞爾の縁戚なのです。
しかし石原は後年、その満州政策をめぐって東条英機と対立し、左遷されてしまいます。その結果、戦犯指定を免れますが、間もなく癌で死亡します。
あくまで仮定の話なのですが、永田が斬殺されなければ東条が最高権力を握ることもなく、石原が左遷されることもなく、いずれ戦争は避けられなかったとしても、こうまで悲惨な結末にはならなかったかも知れないのです。
平成23年8月15日
お詫びと訂正
平成23年8月13日付け「スイスフラの変調」の最後の方に、金がニクソンショック以降500倍になっていると書いてしまいましたが、50倍の間違いでした。単純な計算間違いで大変申し訳ありませんでした。ご指摘ありがとうございました。
従って、同時期の原油と同じくらいの上昇幅となり、特に金の上昇幅が大きいと言うことはありませんでした。
この件に関してはもう一度改めて思考させていただきますので、その記事の部分は削除させていただきました。
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