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1959年新東宝製作映画『大東亜戦争と国際裁判』 東京裁判 [You-Tube動画] 

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 東京裁判 1959年新東宝製作映画『大東亜戦争と国際裁判』


東京裁判

https://youtu.be/z1lojOTB0vQ
 2015/07/02 に公開 51分03

 1959年新東宝製作映画『大東亜戦争と国際裁判』より、東京裁判の場面を抽出して再­構成してみました。
 監督=小森白。出演は嵐寛郎、清水将夫、佐々木孝丸ら。



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レヴィナスの時間論 内田樹の研究室 2014年11月16日 09:15

内田



 レヴィナス時間論



内田樹の研究室 2014年11月16日 09:15

『福音と世界』という冊子に標記のような文を寄せた。あまりふつうの人の眼には止まらないような媒体なので、ここに再録しておく。

 レヴィナスの時間論

 最初は「レヴィナスの終末論」というお題を頂いた。原稿を引き受けたのは昨年の12月である。そのときには「あのこと」を書こうというアイディアがあったのだと思う(そうでなければ引き受けない)。だが、10ヶ月経って、いざ締め切り間際になってみると、そのとき何を書く気で引き受けたのかが思い出せない。とりあえず、レヴィナスの時間の観念についてなら少し書けそうな気がするので、それを書こうと思う。それはユダヤ教の終末論的思考にどこかで通底しているはずである。

 エマニュエル・レヴィナス(1906-95)の戦後すぐの著作に『時間と他者』がある。短い講演録だが、正直言うと、ほとんど意味不明のテクストである。

 終戦直後に「ホロコースト・サヴァイヴァー」としてのレヴィナスの哲学的営為の始点を画す著作が、私のように長期にわたってかなり集中的にレヴィナスの著作を読んできた人間にとってさえ「ほとんど意味不明」なのである。

 『時間と他者』はかなり早い段階で邦訳された(1986年、原田佳彦訳、法政大学出版局)。にもかかわらず、レヴィナスの時間論を主題とした日本語の研究は管見の及ぶ限りほとんど存在しない。
 重要性が低いとみなされたわけではあるまい。たぶん多くのレヴィナス研究者にとってレヴィナスの時間概念があまりに私たちの日常的な時間理解と隔絶していたために、研究対象から除外されたのだろう。

 私がレヴィナスから学んだ重要な知見のひとつは「若いときにはわからないことでも、年を取るとわかることがある」ということである。
 哲学者というのは高性能の知性の働きがあれば少年でもでもなれるというものではない。その点で、音楽家や数学者や詩人と違う。哲学者は歴史の風雪に堪えて、さまざまなものを失い、人間の無知や邪悪さに深く幻滅し傷つけられ、それでもなお「人間的叡智」と呼ぶに足りるもの、後世に伝えるべき知見を見出した人間のことである。レヴィナスはそういう哲学者だった。

 レヴィナスは戦時捕虜収容所からパリに戻ったとき、リトアニアに残した家族のほぼ全員がアウシュヴィッツで殺されたことを知った(さいわいに彼がパリに残した家族は親友モーリス・ブランショのはからいでゲシュタポの捕縛をまぬかれた)。

 フランス・ユダヤ人社会が解体的危機に遭遇していたまさにその時期に、『時間と他者』の連続講義は、同じくホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者ジャン・ヴァールの主宰する哲学学院で1946年から47年にかけて、四回かけて行われた。聴衆の相当数は生き残ったユダヤ人たちであった。

 この時期、崩壊しつつあるフランス・ユダヤ人社会を支えるためにレヴィナスは必死で働いていた(タルムードの古法を老師について学び、ユダヤ人青少年のための教育制度の再建を本業としていた)。

 そのように特殊な歴史的条件下で語られた時間論である。だとすれば、それは深い苦しみの中で振り絞るように語られた希望の時間論であったはずである。そのような日々の営みを哲学的に基礎づけることのできる時間論でなければレヴィナスにそのときそれを語る必然性はないからである。

 『時間と他者』において、レヴィナスはそのときだからこそ語られなければならない時間論を語った。というのが私のこの小文における仮説である。ただし、私に与えられたのはわずか6000字である。十分な準備もないので、おそらく論じている途中で話は尻切れとんぼで終わってしまうだろう。せめて冒頭の最も難解な一節だけについては、解釈可能性を示したいと思う。読者諸氏はそれを以て諒とされたい。

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マサダの砦とユダヤの誇り 地中海と砂漠のあいだ 2004-09-22

マサダの砦



 マサダの砦ユダヤの誇り



地中海と砂漠のあいだ 2004-09-22 05:15

 エルサレムから南へ下がる。車窓の樹々は所々うっすらと草の生えた沙漠の丘となり、海抜マイナス400メートル。左手には世界最古の町エリコが見えてくる。そこを過ぎると、ぼーっと暑く霞のかかった波もなくただ静かに広がる死海と、赤茶けたゴツゴツした岩肌の山々。

 マサダの砦。

 1世紀の初め、ローマ軍に奪われたエルサレムから逃げ延びたユダヤの人々が、このヘロデ王が残したマサダの砦に立てこもり、ローマ軍に降伏することを最後まで抵抗した歴史的な沙漠の砦。当時1000人ほどのユダヤの人々が、ローマ軍によって陥落されたエルサレムから逃れ、この沙漠の砦に水を蓄え、町を作り、砦の下から攻めてくるローマ軍との戦いに挑んだ。
 そして西暦73年。3年という長い月日をこの荒野のマサダで生き延びたユダヤの人々は、遂にその最後の時を迎える。

 山の裾野からどんどん押し寄せるローマ軍は、今にもこの高くそびえる沙漠の赤茶けた砦を攻め落とそうとしている。その最後を悟った960人のユダヤの人々は、互いにくじを引きあい、誰がどの順で誰を殺すかを決めた。
 そう、最後のひとりをも残さずに・・・。彼らはローマ軍に降伏してユダヤの誇りと威厳を捨てて生きるよりも、ユダヤとして死ぬことを選んだ。
 敵の手にかかる前にマサダの住人960人は、各々の家族で死出への旅立ちへのくじを引いた。
 一説によると、各家庭の父が皆をあの世へ送り、残った男たちは各々を家族の元へと送ったという。


 現在マサダの砦は、イスラエルでもエルサレムに次ぐ人気の観光地。死海近くの山のすそのからは、ロープウェイが砦のある山頂まで通い、ロープウェイから見下ろす足元のはるか下には、当時ユダヤの人々が砦まで登った「蛇の小道」やローマ軍が野営していた跡地があちこちに今も残っています。頂上の広い砦跡にはネゲブの荒野を見渡すヘロデ王の宮殿のテラスや、住人の使用したサウナやシナゴーグの遺跡などがあり、そこからの景色はまさに絶景。見渡す限り生き物の気配のない赤い乾いた砂漠と、それを照りつける太陽。そして、じっとただ横たわる幻のような死海。

 イスラエルの若者は18歳になると男子は3年から4年、女子は2年間にわたり徴兵されますが、軍隊のユニットによっては入隊式をこのマサダの砦にて行います。

 そして、このマサダで敵に降伏することなく、誇り高く死んでいった彼らの先祖の魂を忘れまい、そして二度とその悲劇を繰り返さないように「Masada shall never fall again」と胸に誓います。





マサダの砦 イスラエル 1997.mpg  [You-Tube動画]

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 マサダ(Masada)の砦 ユダヤの急進派集団自決


マサダの砦 イスラエル 1997.mpg

https://youtu.be/ZYPJL7PbEHU
2011/12/08 にアップロード 1


 聖地・聖書の旅: イスラエル 1997

 マサダ(Masada)の砦: 死海そばの標高約400メートルの岩山にある。
 ヘロデ大王が離宮兼要塞として大改修し­、難攻不落と言われたが、ローマ軍に攻められ第1次ローマ・ユダヤ戦争終結の地となる­。
 ユダヤの急進派、967人が立てこもりローマ軍に徹底抗戦するが、ついに、ほぼ全員­が集団自決(73年)という惨劇となる。

 2001年にユネスコ世界遺産。 観光用のロープウェイが完備。 ふもとの駅は海面下257m、頂上の駅は海抜33mで、世界一、低い空中を走るロープ­ウェイといわれる。 ローマ軍は砦攻めに岩と土砂で巨大なスロープを築きあげ、砦外壁にまで迫った。このス­ロープはまだはっきりと残っている。ヘロデ大王の離宮をしのばせるローマ式浴場の遺跡­もある。

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