
遊戯三昧(ゆげざんまい)
人の心に灯をともす H.24(2012)-08-25 05:55
テーマ:禅と仏教藤原東演住職の心に響く言葉より…
「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。
我を忘れて、無心に遊んでみないか。
仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。
仕事は成果をあげなくてはならない。
「何かのため」という意味づけが不可欠だ。
ところが、遊びは何かのためにという目的がない。
その成功とか失敗なんか関係がない。
成果など計算したら、それは遊びではない。
人の評価も気にする必要がない。
ただやることが面白い、楽しいからやるのである。 続きを読む
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他人ではなく自分が自分を評価して生きる新しい時代
zeraniumのブログ 2013年11月24日 (日)
支配的な権力に対抗する側の特徴を見るとおもしろいことに、対抗しているはずの支配的な価値を、ちょうど裏返したような組織をつくり上げてしまうことです。「牢名主」(ろうなぬし)がそうであり、支配的な価値においてはもっとも極悪非道とされて、もっとも刑期の長い犯罪者が、逆に牢の中ではトップに君臨する。価値こそ逆転しているけれど、しかしつくりあげた仕組みは娑婆(しゃば)にあるものをソックリ引き写したものです。オウムも、グルと弟子とのあいだに、教師と生徒のような評価し評価される関係をつくり、信徒同士のあいだで競争が行なわれました。
教団のなかは位階が非常に細かく分けられており、それをステップアップしていくカリキュラムはまさに今の学校制度そのものです。支配的価値から逃れてきたはずなのに、「サティアンのなかではみな平等だ」とはならない。対抗組織というのは、それが敵対していたはずの支配的社会を、気づいたらそっくり模倣してしまっているものなのです。しかもそこにあるのは、グルに認められることで自分が評価される世界です。
サリンをまけと言われたら撒き、それが業績として評価されて、やれなかった奴に差をつけることができる。そしてグルの意向に沿えたことに満足を感じる。こうした学校的価値から遠く離れたつもりだったのに、サティアンのなかでももうひとつの学校に属してしまった。しかしそれは、ひとりオウムの若者たちだけではないはずです。自分で自分の評価ができず、ただ他人の目でしか自己評価ができない従属的な意識こそが、実は学校的価値感のなかで叩き込まれてきた習い性のようなものだからです。つまり、「だれかのために」「なにかのために」という大義名分がなければ、自分を肯定したり評価したりすることができない。 続きを読む