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<国家神道の呪縛> 本澤二郎の「日本の風景」(1450) H.25/11/06

本澤二郎の「日本の風景」
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<国家神道の呪縛>


 自立できない日本人は、常に誰かに寄り添って生きる。21世紀になっても、となると、この国の近代化は永久に訪れることはない。


「ジャーナリスト同盟」通信 本澤二郎の「日本の風景」(1450) 2013年11月06日

<国家神道の呪縛>

 好天の11月5日、房総半島に出かけて埴生の宿の柚子の様子を調べた。まだ少し早い。太陽を一番浴びる、届きそうもない高い所の柚子は、既に黄色く色づいているが、例年通り小鳥の餌になってもらうしかない。借りている畑の一角に植えた大根は、無農薬無肥料のせいで、残念ながら今年は期待薄だ。やむなく生い茂る庭の雑草を、自動草刈り機で退治しようとしたが、意外にも苦戦を強いられた。細いツルが絡まって回転を止めてしまうのだ。

 不思議とこの国の社会の行く末に思いをはせてしまった。確か土曜か日曜日の夜、この半島で29歳の泥酔農民の車が、自転車に乗っている5人の中学生の列に突っ込んで、重軽傷を負わせたひき逃げ事件が起きた。犯人は神社の祭礼からの帰り道だった。

<天皇制国家主義の源流>

 信じたくもないが、彼は神社信仰にかぶれていたのであろうか。神の存在と神に守られている自分を信じて、泥酔したまま車を運転したのであろうか。この時期、全国の無数の神社で祭礼が繰り広げられる。警備に警察も動員されることも。この日は、酒飲み運転を大目に見てお咎(とが)めなしだ。祭礼に警察も本来の業務を怠ってしまう。

 ずばり指摘しよう。21世紀に生き延びる戦前の国家神道のことである。秋は市町村の町会・部落という事実上、行政の最末端レベルで神社の祭礼が行われている。明治期に国家神道の地位を確立した神社は、部落ごとに必ず存在する。日本初めての中央集権体制下の国家の意思で建設されたものだ。
 日本人の精神は、この好戦的な宗教である神道によって育まれた。右翼の人士は、神道を「日本文化」と吹聴している。個々の家々には、神社と連動する神棚が祀られた。榊(さかき)という樹木で飾り、そこに毎朝、その家の主人、時には幼子が、炊きたてのご飯や、汲んだばかりの水を上げて天皇や家族のことを祈ってきた。
 この神社神道最大の大衆動員装置・行事が秋の祭礼である。神輿(みこし)と山車(だし)が用意される。笛や太鼓で部落や町内を駆け巡って、気勢を上げて住民の心を1本にまとめ上げるのである。筆者の父親は部落の太鼓叩きだった。日本酒を御神酒(おみき)と称し、これを飲むことが参加者の唯一の楽しみとなって、格好の大衆動員の武器となった。泥酔して争いをすることが定番だった。

 それぞれの国や社会にもこの種の祭礼があるようだが、日本では明治の国家神道が、天皇の名において協力に推進、国家・天皇への忠誠心を育んだ。それは大人から子供、男女全てを巻き込んだ。臣民とされた国民の務めでもあった。 これは、敗戦後の民主主義の時代になっても、今も因習として小さな町や部落を支配している。時には大都会でも。このことを抜きに、日本人と日本を分析するのは不可能なのである。外国人には、この隠された意図を理解できないだろう。歴史認識ともからむ。過去を正当化する安倍・国家主義とも関係している、とあえて指摘しなければなるまい。戦後は1宗教法人になったものの、今もツルのように地域にへばりついて、秋の祭礼で俄然、威力を発揮する。そのための寄付の強要なども起きている。反対すると、村八分が待ち構える。

 記憶を辿ると、神社寄付の強要にキリスト教徒が憲法20条違反で提訴する事件がしばしば起きてきた。改善されるはずだったが、依然として変わっていない。
 これこそが天皇制国家主義の源流なのである。現代人には到底信じられない、他愛もない土俗信仰だというのに、である。

<頂点に靖国信仰>

 日本人の多くは宗教に対して寛容である。神仏の祠(ほこら)の前に立つと、両手を合わせる。そこに神仏が存在するのか、という詮索などしない。それは中国で蛮行を働いた日本軍兵士も同様だった。
 筆者は20年ほど前に福建省を歩いた。そこで元小学校の校長と出会い、昔話を取材した。彼は幼いころ日本兵に追われた時、近くの廟に潜んだ。さすがに日本兵は手出しをしなかった。「祠に救われた」と彼は証言した。
 神社仏閣での殺戮がイスラム世界で今も繰り広げられているが、日本兵はそこに恐れを抱くことを神社信仰から学んでいた。それが体全体に染み渡っているのだろう。
 神棚・神社信仰の先に、靖国や伊勢神宮・明治神宮・出雲大社などがある。余談だが、共和党の戦争屋・ブッシュは明治神宮を参拝したが、民主党リベラル派のケリー国務長官らは、靖国を回避して、千鳥ヶ淵墓苑を参拝している。ワシントンのリベラル派の常識人は、神道・神社への参拝NOなのである。欧米人にとって靖国参拝は100%NOなのだ。
 侵略戦争否定のキリスト教徒の多くも靖国NOだ。仏教界でも積極的な靖国参拝は見られない。

<政教分離に無知な神社派>

 近代は政治と宗教の分離を原則としている。この当たり前のルールを日本人の多くは、実に曖昧にしている。宗教界のほとんどが、保守派の政党や議員と関係している。石原慎太郎家は宗教団体を足場にして政界入りしている。家族の中にはオウム真理教に関係した者もいた。オウムも「石原内閣」誕生を画策したほどである。
 公人が特定の宗教団体と関係して、そこに公的なものを関与させることを禁じている。1宗教法人に過ぎない靖国神社への参拝は、公人として許されない。それなのに、今年の秋の例大祭に150人余の国会議員と数人の閣僚と政府要人が参拝して、隣国の批判を浴びた。安倍内閣の下では、隣国との信頼関係の構築は、完璧に閉ざされて当然なのだ。
 戦争神社・刀剣を祀る靖国は、侵略や植民地支配を受けた被害者にとって、深刻な精神的苦痛を強いるものなのである。しかしながら、政教分離は曖昧模糊としている日本社会の根源に、行政最末端での神社祭礼が因習となって戦後においても、強固に支えている。国家神道の呪縛そのものなのだ。
 それを「日本文化」と決めつけている右翼学者や政官財の面々である。明治以前の江戸文化に民衆の生き生きとした文化は、いうなればラチ外に置かれている。「明治は遠く」ではない。身近に人々の私生活にまで及んでいる。

<地域を牛耳る神社信仰>

 筆者も、1度町内会の役員の集まりに出たことがある。そこに区役所の役人も出ていた。神社祭礼が町内会の重要な行事に組み込まれていることに驚き、批判を試みたものだが、憲法20条を理解する役員はほとんどいなかった。仮にいても、そのことを口にする勇気ある市民はいない。
 日本国憲法の政教分離規定を認識していないのだ。それは東京都派遣の役人もそうだった。衝撃を受けてしまった。「寄付の強要は許されない」という指摘をするのが、精一杯だった。これは首都での町内会の現状であるが、地方ともなると、祭礼は部落行事として堂々と寄付の強要が行われている。
 印象では小泉内閣のころから、廃れている神社の再建が活発化した。その資金は部落の全世帯に及ぶ。反対しようものなら村八分にされかねない。地元有力者や商店会の面々は、競争して寄付金額を吊りあげると言う。
 信仰する自由としない自由という憲法認識など存在しない風土に愕然とするばかりだ。こうしたいい加減すぎる宗教認識が、日本社会の底辺で靖国を補完する作用を果たしている。このことに言及する学者も文化人もいない。恐らくこうした社会分析は、これが最初ではないだろうか。

<町内会・部落(地区)に根を張る土俗宗教>

 心ある識者は皆、この前近代の行事に沈黙する。
 西暦600年代に、日本に仏教や儒教が朝鮮の百済から伝わった、と歴史は教えている。筆者は同じころ、神道も朝鮮の渡来人によって持ち込まれたと推論している。この渡来人一部が天皇家を形成したものだろう。その足跡を隠すための装置が、古事記や日本書紀であろう。
 中国・韓国との共同研究で、天皇家と神社の歴史は判明するはずだ。天皇支配は、日本に鉄を持ち込むことで支配を確立した。その源流を出雲で散見できる。出雲大社の鳥居は朝鮮半島の方角を向いている。
 徳川幕府の崩壊による天皇家の台頭で、神道は国教の地位を掴んで、それこそ独特の強制的中央集権体制によって、地域の部落単位に神社を建設、民衆の全てを天皇崇拝で拘束・管理することに成功した。
 これについての研究が存在しているのかどうか。神社信仰無くして、あれほどの戦争悲劇は起こり得なかったろう。むろん、個人がこの土俗的信仰をするのは、自由である。しかし、信仰しない自由もまた容認されなければならない。
 問題の一つは、悪しき過去を反省も謝罪もしていない点にある。隣国の不安もここにある。ドイツとの落差でもある。天皇と神道という政教一致体制を容認する風土を懸念する識者は、決して多くはない。そこに天皇制国家主義を好む財閥という構造がある。今の安倍内閣を補完する財閥と分析できる。

<集団主義・寄らば大樹>

 海外の日本研究者は、日本人の集団主義に驚愕する。友人の中国人は、よく高校野球に熱中する日本人の集団主義を「こわい」と指摘していた。自立しない日本人、自立することの恐怖を抱く日本人である。
 寄らば大樹とか、赤信号みんなで渡れば怖くない、という観念に取りつかれている日本人である。この集団主義も国家神道のもとで確立したものである。思うに、学者も文化人でさえも「群れる」ことを習性としている。
 「政界の一匹狼」というと、宇都宮徳馬を思い出してしまう。彼の正義の主張は、彼が群れなかった証拠である。正義と勇気は、自立人間の特権である。信仰者の多くは、群れることに安心感を抱く。

<霞が関や自衛隊にも>

 この群れる体質は、政界や官界、そして財界にも及んでいる。
 最近、近くに大きなホテルが誕生した。屋上の一角に神社が作ってあるのに驚いた。ホテルの安全を神社に任せる?不思議な光景だ。占いの世界に舞いこんでいる経営陣なのだ。
 役人が関係する建造物にしても、地鎮祭という実に他愛ない「神事」をする。現代人にとって不思議な光景は、明治の神社信仰をそのまま引きずっている。自衛隊の基地視察でも仰天したことがある。
 確か安倍の地元・山口県内の基地だったが、基地内に神社があった。司令官室の最上部に神棚まであった。見学中、近くの神社に参拝さえ強要された。初めての経験となった。彼らは戦前同様に「神風」に期待しているのである。
 自衛隊員は神社信仰で日々の訓練をしている?日本帝国軍人が今に生きている?
 狂気乱舞の日本を象徴している。そこには最末端から政財官から自衛隊にまで神道祭礼が、紛れ込んでいるのである。日本近代化への道遠し、である。底辺で、地域と住民を縛り付けている「日本文化・神社信仰」が存在している。過去を清算できない日本は、憲法から学ぶ必要があろう。
 自立できない日本人は、常に誰かに寄り添って生きる。21世紀になっても、となると、この国の近代化は永久に訪れることはない。今回はあえて日本のタブーに挑戦してみた。

2013年11月6日9時15分記

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