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他人ではなく自分が自分を評価して生きる新しい時代 zeraniumのブログ H.25/11/24

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 他人ではなく自分が自分を評価して生きる新しい時代


zeraniumのブログ 2013年11月24日 (日)

   支配的な権力に対抗する側の特徴を見るとおもしろいことに、対抗しているはずの支配的な価値を、ちょうど裏返したような組織をつくり上げてしまうことです。「牢名主」(ろうなぬし)がそうであり、支配的な価値においてはもっとも極悪非道とされて、もっとも刑期の長い犯罪者が、逆に牢の中ではトップに君臨する。価値こそ逆転しているけれど、しかしつくりあげた仕組みは娑婆(しゃば)にあるものをソックリ引き写したものです。オウムも、グルと弟子とのあいだに、教師と生徒のような評価し評価される関係をつくり、信徒同士のあいだで競争が行なわれました。

   教団のなかは位階が非常に細かく分けられており、それをステップアップしていくカリキュラムはまさに今の学校制度そのものです。支配的価値から逃れてきたはずなのに、「サティアンのなかではみな平等だ」とはならない。対抗組織というのは、それが敵対していたはずの支配的社会を、気づいたらそっくり模倣してしまっているものなのです。しかもそこにあるのは、グルに認められることで自分が評価される世界です。

   サリンをまけと言われたら撒き、それが業績として評価されて、やれなかった奴に差をつけることができる。そしてグルの意向に沿えたことに満足を感じる。こうした学校的価値から遠く離れたつもりだったのに、サティアンのなかでももうひとつの学校に属してしまった。しかしそれは、ひとりオウムの若者たちだけではないはずです。自分で自分の評価ができず、ただ他人の目でしか自己評価ができない従属的な意識こそが、実は学校的価値感のなかで叩き込まれてきた習い性のようなものだからです。つまり、「だれかのために」「なにかのために」という大義名分がなければ、自分を肯定したり評価したりすることができない。



   最近、公共性の復権とか、公的価値のためにということを声高に唱える人々がおり、「新しい教科書」一派だけでなく、そういう掛け声を聞くと、私は実におぞましい思いがします。それは何か理想化された公的価値や理念があるゆえに、現在や自分があるといった評価軸のことで、これこそが「学校的価値」というものだったのです。他人から与えられる価値評価ではなく、自分で自分を認めて受け入れることを「自尊感情」といいます。そしてオウムの若者たちは、この自尊感情を奪われた若者たちでした。

   ならば自尊感情は誰が植えつけたものなのか。
   エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こぎにした場所でもありました。学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけからとは限りません。学校は優位者に対しても、彼らの人生を何かの目的のための単なる手段に変えることで、無条件に自分に対する自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。

   オウムが対抗エリートとして、支配的エリートの陰の部分を演じてしまった二流エリートだとしたら、自分が二流であることを受け入れたうえで、競争から降りる生き方を選択したのが「だめ連」と言われる若者たちです。だめ連の若者たちはほとんどが一流銘柄大学の出身者です。その彼らが、これまで自分たちを駆り立ててきた、「身を立て、名を挙げ、やよ励めよ」(唱歌 仰げば尊し)という立身出世イデオロギーにはっきりとアンチテーゼ(反する主張)を突きつけた。

   学校行かなくてもいいじゃないか。就職しなくてもいいじゃないか。結婚しなくてもいいじゃないか。ダメでいいじゃないか・・・。おもしろい人たちが出て来たなと思いました。しかも彼らは高学歴者ですから言語的な自己表現力がある。ダメであることの正当性を語ろうと思えばできないわけではない。ただ「交流」と称して、来たい人を受け入れる。こういう「がんばらない」運動スタイルもとてもおもしろい。何かの目的のために努力するこれまでの運動とは、異質なスタイルです。

   思うにだめ連の人々は、ある種早すぎる老後を生きているのかもしれません。
   老後というのは、現在の代償として将来にお預けにされていた報酬のようなものですが、それを先に頂いて今を楽しみましょうという生き方がだめ連です。これまでさんざん先延ばしされた報酬のために、現在を犠牲にする生き方をして来た日本人がその生き方を捨て、「いま」「ここ」を大切に生きるようになるのなら、こんないいことはないと私は思っています。

   フリーターの若者たちへの論評や分析で最近目につくものに、フリーターの若者たちはいろいろ夢は語るが、そのために現在何かの準備や努力をしているわけではない、ただフリーターとして日を送るだけで、自分を見据えることを先延ばしにしている、それはある種の現実逃避ではないか、というものがあります。しかし私は、フリーターの生き方自体が、「将来の夢は何ですか」という業績主義の価値感からはハズれたものだという気がしています。

   またそうしたインタビューに答えて「夢」を語る若者たちは、したたかな狡知(こうち)も持っており、「あなたに自分の本音など言うつもりはないよ」というメッセージでもあるのです。フリーターとはこれまでの規格にハマラない人たちの総称であり、なんでも入るゴミ箱のような残余カテゴリーの一種ですから、そういう人たちに「あなたの現在は将来への手段なのだから、将来の目標は何? 今どんな努力をしているの?」 と聞くこと自体がどれほど押し付けがましいか、フリーターにかかわる大人たちはわかっていないのではないでしょうか。

   それでもフリーターの若者たちを「ふらふらしている」と非難したり、「正社員になって落ち着きなさい」と心配する大人たちはいることでしょう。そしてそういう大人たちは、正規雇用というパイが一生にわたって保証される、日本史上でも実に稀有な時代を生きた「幸福」な人々なのです。そういう人々は、自分の人生をたった一つの収入源に結び付けて、そのために自分の能力や生き方を職業や会社に特化した人々です。そういう人たちを専門家といいますが、専門家は他の分野では使いまわしがききません。特定の会社で専門的に特化した人も他の会社では使いまわしがきかないのは同じでしょう。

   専門家になるというのは、分業された構造のなかで自分を手段的な部品に変えていくという、近代社会に特有の生き方です。しかし人間の生活には大きな多様性があるので、あれもしたい、これもしたい、というのが人生ではないでしょうか。生きることに専門家など必要ないのだから、専門家になどならない生き方を選ぶことも「あり」でしょう。自分の人生をたった一つの収入源に縛りつけ、専門に特化する生き方から、一人の人がシングル・インカム(収入)だけでなく小額でもダブル・インカム、トリプル・インカムを持ち、それを複数の人と持ち寄って「持ち寄り家計」でやっていくことも「あり」だと思います。

   現実に老後を考えてもそうですが、これからの世代はもはや年金だけに依存することはできないでしょう。そこへたとえば有償ボランティアで月に何万かが入ってくる。パソコンが得意なら時々インストラクターをしてあげて、わりと効率のいいバイトになる。庭で家庭菜園をやって、新鮮な野菜は買わずに手に入る。田舎の友達が現物でお米を毎年送ってくれる。宅急便でいろいろなものが届き、それを友人同士で交換する。時々、原稿料や印税が入る・・・。こうした自営業はフリーターに似ています。

   しかし個人ですから自営業というよりは個人事業主で、フリーターよりもフリーランスと言ったほうがよいかもしれません。フリーランスとは、誰からも雇われず、自分が自分の雇い主であり、しかも多角経営な生き方です。そうやって若干の現金とサービスや現物がぐるぐる回るわけで、最近流行りの「地域通貨」や「エコ・マネー」などが、カネを媒介にしないやり取りを可能にしています。

   マルクス理論では、自営業者を旧中間層と呼び、フルタイムで働く雇われ労働者を新中間層と呼び、旧中間層から新中間層へなだれをうって階層移動が起きると考えました。しかしそれは間違いでした。おもしろいことに、不況になるたびに自営業というカテゴリーの職種の人々が数パーセント増えるということがわかっています。ですから自営業は究極の持続可能な生活スタイルだと言えます。上司はいない。誰からも雇われない。命じられない。最高じゃないですか。

   フリーターを多角経営の自営業者だと考えれば、今フリーターをやっていることが将来、正社員になるための手段だと考える必要がなくなります。一生、自分を雇う自営業でやっていくのも「あり」だと思います。老後はどの道、誰もがそうなるわけですから。それを世間や親は「ふらふらしている」と言うでしょうが、フルタイムの正社員であることを、すべての人がスタンダードな生き方だと考えていた時代は、日本の歴史においてもほんのここ最近のことであったのです。そしてこうした時代はもはや終わろうとしています。

   フリーター的人生には先々の保障がない、と言われてきました。
   「蟻とキリギリス」の例を引いて、いまを楽しく生きようとする生き方を道徳的な面からも貶められてきました。しかし今や、この不況のおかげで将来の保障は誰にもなくなっています。将来のために現在を犠牲にして来た人にも、必ずしも将来の報酬が保障されなくなったのです。そうなれば誰もが、「今」「現在」の価値を見直す気持ちになるでしょう。それはとてもステキなことではありませんか。

   自分の人生に最後に評価をくだすのは、親でも先生でも他人でもありません。
   自分が死ぬときには、親も先生もこの世にはいない。自分の人生に「ああおもしろかった」「生きてきてよかった」と言えるのは自分だけなのです。だったら、自分が一番納得できる生き方をしてみようではありませんか。

   なるほど、ヒットメーカーと言われるような人たちは、口をそろえてこう言います。
   「自分が好きなことだけやってきた」と。だから自分も好きなことだけやってお金を儲けられるかもしれない、と思う人がいるでしょう。しかし騙されてはいけない。第三者からの評価によってのみ市場でヒットするようなものは、100のうち1つか2つもないのが実情です。つまり1人の成功者の後ろには99人の落伍者がいるわけで、1つのサクセスの前には99の失敗がつきものなのです。

   しかし自分が好きなことだけやった結果を第三者が評価しようがしまいが、自分が好きなことだけやって生きてこれたのならそれでOKではありませんか。人に言われたことばかりやって人に頭を撫でてもらう生き方と、人に言われないことを好きなようにやって、自分で「ああおもしろかった」と言える生き方とどちらがいいかなのです。

   今の若者たちは、二言目には「好きなことが見つからない」と言います。
   しかし親や教師に言われる通りのことをやっているときに感じる違和感の中に、自分がやりたいことのヒントがあるのです。ただそれに確信が持てず、自信がない。誰もそれをサポートしてくれないし、逆に水を浴びせたりする。若者の「好きなことがわからない」を額面どおりに受け取ってもいいかどうかは疑問です。

   ある有名校で講演したときに、ある男子高校生が「僕はつまらない学校教育を受けてきたことが、上野さんのお話でよくわかりました。こんなつまらない教育を18年受けてきた僕らは、これからどうしたらいいのだろう」、と先生方の前で堂々と発言したのです。私は、「君がそう思ったその時、君はすでにそこから脱しているのだから、これまでの取り返しはいつでもできるよ」と答えました。

   本当に好きかどうかはやってみないとわからないでしょう。
   やってみて失敗したら、やり直せばいい。それだけのことです。そうやっているうちに、自分はこれしかできないとわかることがあるでしょう。その時は、その道一筋でやって行けばいい。それでも、あれも好き、これもやりたいと気が多かったら、あれもこれもやったらいい。食うためには食うための仕事を必要なだけやればいい。そのためには人さまに役に立つスキルの1つや2つは身につけておいてもいい。

   大事なことは、いま自分にとって何が快いか、キモチいいかという感覚を鈍らせないことです。それこそが「生きる力」なのですから。


        book 『サヨナラ、学校化社会』 上野千鶴子著  太郎次郎社エディタス

                           抜粋

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