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・「真の愛」は犠牲を要求しない zeraniumのブログ H.27/05/18 

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 ・「真の愛」は犠牲を要求しない


zeraniumのブログ 2015年5月18日 (月)

   本物の謙虚さとは、自分の全体性とその価値を愛情深く認めることです。
   真の謙虚さとは、自分自身に対するそうした愛情深い敬意にもとずくものであり、同時に自分が住むこの宇宙のすべての存在が、それぞれの個性と自尊心を持っているという気づきに根ざすものです。

   誤った謙虚さは、あなたはつまらない人間だとあなたに告げます。
   しかしいくらそう告げるとしても、誰も自分の自尊心を否定するような説を心から受け入れることなどできないことから、「誤った謙虚さ」には歪みと思い上がりと、否定された自負心が隠されることになります。

   「偽りの謙虚さ」は、他の人々の価値を貶(おとし)めることがあります。
   なぜなら自分には価値がないと認めているならば、他の誰にも価値を見出すことなどできないからです。もし真の自負心があれば、仲間としての人間存在の全体性に気づくことから、彼らが自らの力を使う手助けをすることができます。

   しかし「偽りの謙虚さ」は、表向きは多くの人々を援助したり、自分を信頼するよう奨励するとしても、実際には人々が自分自身の能力に気づいたり、それらを使ったりすることを妨げているのです。

   あなた方が何と教えられていようと、「自己犠牲」に値打ちはありません。
   その理由の一つとして、それは不可能だからです。自己というものはその本質として、成長し、発展するものであり、それは消滅し得ないものです。自己犠牲はほとんどの場合、実は自分の重荷を他の誰かに放り投げているのであり、それを人の責任のように見せることを意味しています。

   自分の子どもに「あんたのために私の人生をあきらめた」と言う母親、あるいは「私は両親のために自分の人生をあきらめ、彼らの世話をすることに専念した」という子どもの言うことが意味していることは、「私は怖くて、自分の人生を生きる勇気もなかったし、親に自分の人生を生きさせる勇気もなかった。だから私は自分の人生を『表向きには』『あきらめて』見せることで、実は自分が望んでいた人生を手に入れた」と言っているのです。

   真の愛は犠牲を要求しません。
   しかし自分自身の存在を肯定することを怖れている人は、当然、他の人々が自分自身のために勇気を持って生きようとするのを許さず、それを怖れるものです。子どもを鎖で自分に繋ぐことが子どもを助けることではないし、老齢の親の無力感を自覚させて煽ることが親を助けるわけではありません。

   人間が持つ自然な感覚のコミュニケーションに正直に従うことができれば、あなたの多くの問題は解決されるでしょう。暴力を引き起こすのは、コミュニケーションが抑圧された時だけです。あなたの中には、人間としての本来の自然な愛の力があり、その普通の本来のコミュニケーションが、他の人間たちとの自然な接触をもたらすようにできているのです。自分を愛し、自分に正当な敬意を表してください。そうすれば他の人々に対しても、ふさわしく公正に対処できるでしょう。

   あなたが「嫌だ」と言って拒否したり、否定する時というのはいつでも、当座の状況や提案されていることが、あなたの中で自分の考える何らかの理想に達しないからです。

   そして拒否というのは常に、少なくともあなたがより良いと考える何かに対する反応でもあります。それはあなたの「完全さ」というものに対する、頑なな概念があるからです。しかしそうであっても、何か理想的な完全なものと比較することで、あなた自身の今ある現実を決して否定したりしてはならないのです。

   完全なものは本来存在しません。
   なぜならすべての存在が常に成りつつある状態にあり、それは”完全なものに”なりつつあるという意味ではなく、いっそう”それ自身”になりつつある状態だということです。

   あらゆる異なるすべての感情は、愛に基づいています。
   それらのすべてはどのようなものであれ愛に結びついており、愛に帰り、愛を広げる方法なのです。この本ではあえて「愛」という言葉をあまり使わずにきましたが、それはその言葉に付けられてきたさまざまな解釈のためであり、しかも愛という名目で行なわれてきた多くの過ちのためでもありました。

   人を愛する前に、まずあなた自身を愛さなければなりません。
   自分を受け入れ、あなた自身であるものを喜びとともに生きることで、自分の能力を開花させ、ただそこにいるだけで人々を幸せにすることができます。

   自分を嫌い、憎みながら、人を愛することはできません。
   そんなことは不可能です。もしそれがあるとすれば、自分にはないと思うあらゆる性質や資質を持つ他人に自分を投影し、口先だけで賞賛し羨ましく思うとしても、いずれ自分を憎むゆえに相手を憎むようになります。

   誤った謙虚さほど尊大なものはありません。
   スピリチュアルな「真理の探求者」だと自称する多くの人々が、誤った謙虚さを持っています。「私自身はつまらない者だが、神の霊が私を満たし、私から何か善いものが出るとすればそれは私ではなく神のおかげだ」、あるいは「私自身の能力は何もないが、神の力があらゆる才能を持つ」などと。

   しかし、もしそうした言葉を引用するならば、あなたは具現化された神の力です。
   あなたは無力ではなく、取るに足りない無害な粘土の塊などではありません。あなたは、あなたとして現れている神であり、「彼」と同じく正当な存在なのです。あなたが神の一部であれば、「彼」もまたあなたの一部です。自分の価値を否定することで、結局あなたは神の価値をも否定するのです。

   「すべてなるもの」はすべての実在の起源です。
   ですから私はそれを、特定の性を意味する「彼」という言葉で述べることを好みません。真の宗教は、生命に対するのと同じく、抑圧するものではありません。イエスが語った時、彼はその時代を生きる人々の時代背景を考慮して、ある特定の歴史的時期に、特定の人々にとって意味を持つ言葉とシンボルを使ったのです。


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