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松井石根大将の生き方 「誇り高き日本」 2009/9/2(水)

日本



 松井石根大将の生き方



「誇り高き日本」 2009/9/2(水) 午前 9:20

 南京の戦いが終わって日本に帰国すると、
 松井石根(いわね)大将は上海で倒れた日本兵と支那兵の双方の霊を慰めたいと願いました。
 松井大将は同行していた岡田尚に日支両軍兵士の血にまみれた上海の土を取り寄せて、
 観音像をつくりました。
 これに興亜観音と名付けて熱海の伊豆山の中腹に建立し、
 以来お参りを欠かさず日課としてきました。
 その後、戦争犯罪人とされ、巣鴨拘置所の監房の壁にはこの興亜観音の写真が掲げられ、
 肺炎を患っていた松井大将は朝と夕の七時、正面に正座し、合掌礼拝し、般若心経と観音経を読誦しました。
 同室の大川周明はいつも感嘆していました。

イメージ 1

 刑の執行が近くなったある日、松井大将はこのように語りました。
 「私は日露戦争の時に大尉として従軍したが、その当時の師団長と
 今度の師団長などと較べてみると、問題にならんほど悪いですね。
 日露戦争の時は支那人に対しても、ロシア人に対しても、武士道とか当時とは全く変っておった」

 それから数日後、A級戦犯とされた七人は処刑されました。
 四人と三人に分けて処刑は行われました。
 はじめに松井大将を含む四人が階段を上る。
 「年長の松井大将に」と東条元首相が言い、
 松井大将の音頭で、天皇陛下と大日本帝国万歳が三唱され、
 そのまま運命に従ったのでした。71歳でした。

・・・・・・

イメージ 2

 中支那方面軍司令官 松井石根大将は軍人として、この日は生涯で最も記念すべき一日でした。
 昭和12年12月17日、南京入城式。
 我が日本軍は堂々と戦い、南京だけでも6千人以上の戦死傷者、
 支那は約3万人の戦死者を出していました。
 この激しい攻防戦を乗り切っての戦果を思えば、
 敵の首都南京を陥落させたことは松井大将はじめ日本兵にとっては感無量であり、
 日本軍の栄誉でもありました。

 日本の将兵が整然と隊伍を組んで敬礼する中、松井大将は馬に乗って城内に進んでいきます。
イメージ 3

 その後、国旗掲揚式、
 続いて東の方、つまり日本の天皇陛下へ向かって遥拝式を行い、
 松井大将のご発声で、大元帥陛下の万歳を三唱します。

イメージ 4

 さらに松井大将が挨拶をおこないました。
 「大元帥陛下の、みいつによりまして、我が派遣軍は赫々の戦果を収め、ここに・・・」
 松井大将はこの時、声を詰まらせ、痩せた頬にひとすじの涙を見せました。
 すでに60歳に近い松井大将のこの姿を見た将兵たちも胸に迫るものを感じました。

 飯沼参謀長はそのあとにあった祝賀会で、朝香宮中将の思し召しで、英霊に黙祷し、
 戦没した仲間の遺骨を胸に下げ、
 支那国民政府の旗竿に大日章旗の掲揚を見たとき、日本国を誇らしく思った。
 そして夕食の際、祖国日本で聞いた「戦友」が流れてきた時には、思わず涙が流れてきたのでした。
 「此処は御国を何百里・・・」

イメージ 5

 翌18日、慰霊祭が執り行われます。
 この日は非常に寒く、小雪が舞い、強い風が吹き荒れていました。
 痩せすぎて体力も弱り、風邪を引きやすくなっていた松井大将は
 皇后陛下お手製のマフラーを首に巻いていました。

 いよいよ式が始まろうとした時、後ろにいた塚田参謀長が立ち上がり
 松井大将に歩み寄り、うしろにまわってそのマフラーを静かに引揚げたのでした。

イメージ 6

・・・・・・

 南京戦の前、松井大将が日本にいた頃、
 上海で増強された支那軍が日本軍に対して攻撃を仕掛けると
 松井大将は上海派遣軍司令官を命じられ、部隊と共に上海に向かいました。
 松井大将は上陸前の艦上から全軍にこのように訓示します。
 「支那軍に対しては断固掃滅をはかるが、無辜の国民に対してはよく仁慈を施すように」

 松井大将は上海に上陸した時も、南京を総攻撃する時も、そして陥落させたその後も、
 全部隊に対して軍紀と風紀を厳守するように命令しています。
 さらに支那人の保護と外国権益の擁護のため厳格に法を適用すると命じていました。
 徹底した厳しい命令でした。

 松井大将は自身が陸軍士官学校に入った頃からアジアに関心を持っていました。
 陸軍大学校を首席で卒業すると、成績優秀者の通例で外国派遣を命じられたのです。
 優秀な者はドイツやフランスに派遣されますが、松井は支那への派遣を望んだのでした。
 その望み通り支那へ12年間在任し、
 孫文の革命を支援し
 「日本なくして支那なし、支那なくして日本なし」
 と説く彼の大アジア主義に共鳴しました。

 あらゆる面でアジアは運命共同体であり、人類文化の進展と世界平和には
 アジア連合が必要であり、それに向かって協力するために、大亜細亜協会を発足させます。
 この年、松井は台湾軍司令官に任ぜられ、さらに大将に補せられ、
 台湾では台湾大亜細亜協会を設立させました。
 その2年後に現役を退き、松井大将は大亜細亜協会の会頭に就任します。
 会頭に就任すると、松井大将は支那をまわり、支那大亜細亜協会を発足させます。
 日本と支那が反目していては欧米に付け入る隙を与えるだけと考えていました。

・・・・・・

 かつて、松井大将が南京戦に向かう途中でこのようなことがありました。
 日本軍の戦死体は埋葬されて、戦場清掃を済ませていたとき、
 それを見た松井大将は、二人の参謀を呼びつけ、
 日本兵の死体だけを片付け、支那兵の戦死体を放置したままにするとは何ごとか、と叱りつけました。

 また、南京戦の後、松井大将が上海に戻った頃、
 小学生の書いた慰問書を手にして先生が内地(日本)からやってきました。
 内地では南京陥落に小学生も日の丸を振って喜んでいました。
 慰問文には「憎い支那をやっつけてください」と書いてありました。
 それを読んだ松井大将は
 「このようなことを小学生に書かせるとは」と、慰問文を持ってきた先生を叱りつけたのでした。

イメージ 7

 松井大将の秘書であった田中氏は後にこのように語りました。
 昭和41年、岸首相と共に台湾視察に行った時のことです。

 蒋介石は80歳。
 私は蒋介石に敬礼してから
 「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
 「いつか」と聞かれるので
 「昭和11年3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
 松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。

 ふるえ声で「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」
 と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。

 私は驚いた。
 一同も蒋介石のこの異様な態度に驚いた。
 周知の通り南京戦の直後、蒋介石は漢口にいて、しきりに対日抗戦の声明文を発表したが、
 虐殺事件など一言も触れていない。
 何応欽軍司令官の「軍事報告書」の中にも一行もない。
 それを東京裁判は松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して絞首刑に処したのである。

 あれほど支那を愛し、
 孫文の革命を助け、
 孫文の大アジア主義の思想を遵奉したばかりか、
 留学生当時から蒋介石を庇護して、面倒を見て下さった松井閣下に対して
 何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で刑死せしめた。

 悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。

 蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして顔を伏せた。
 蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く。




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