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東郷元帥とニミッツ元帥 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 2009/6/10

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」



 東郷元帥ニミッツ元帥



さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 2009/6/10(水) 午前 7:15


 アジアの各地が白人たちの植民地として支配されていた19世紀、
 わが国日本は明治維新を成し遂げました。
 国家の独立を守り、近代国家をつくりあげたのです。
 その間には日露戦争という日本国の存亡を賭けた戦いがありました。


 日露戦争における日本の勝利は、白人には絶対にかなわないという
 常識を覆す出来事であり、アジアの各国に勇気を与えました。


 その日露戦争の勝利を決定的にしたのが日本海海戦です。
 この海戦で活躍したのが海軍大将の東郷平八郎でした。


 ひとつ間違えると日本はロシアの植民地になりえる戦いでした。
 かなわないと言われた大国ロシアと堂々と渡り合って勝利した英雄の東郷平八郎元帥が
 今の日本の学校で教えられることはありません。


・・・・・・

 明治38年、ロシアは日本海軍に対抗するため海軍を東洋に回航させました。
 その進路によっては戦いが全く変わりきます。
 東郷はロシア艦隊が対馬海峡に現われると確信していました。

 5月27日、38隻のバルチック艦隊は東郷の予感通り対馬海峡に現われました。
 いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は
 「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」
 とZ旗信号を旗艦三笠に掲げました。
 東郷はロシア艦隊を取り逃がすことはできません。
 それは逃がした艦船に日本本土が砲撃されると
 日本には防ぎようがなく敗戦は必至だからです。
 ここで撃ち勝つしかありません。

 東郷は丁字戦法という捨て身の戦法でロシア艦隊を驚嘆・狼狽させました。
 折りから風は強く波の高い日本海でした。
 この気象条件は日本に幸いしました。
 日本は砲力で劣っていて、ロシアの船体に沈没させるほどの穴を開けなくても
 波による浸水で被害をもたらすことができたからです。

 砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、
 東郷は艦橋に立って微動だにせず指揮を執り続けました。
 日本海軍はロシア艦隊19隻を打ち沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。
 しかし日本海軍は1隻も失うことがありませんでした。
 これほど完璧なる海戦は世界の海戦史上ありません。


イメージ 3

 このニュースは瞬く間に世界に伝わりました。
 東郷は世界の英雄と賞賛されました。
 トルコやフィンランドなど多くの国の教科書に彼の英雄振りが記載されています。

 東郷は誠実で私利私欲のない人でした。
 戦争終了後、東郷の息子を文部大臣にしようという声が出ました。
 東郷ほどの名声であればそれも可能でした。

 しかし東郷は
 「人間には器がある。器で生きてこそ幸せだ」
 と言ってその申し出を固辞し、息子を湘南の図書館長にしたといいます。

イメージ 1

 時は移り第2次大戦で米国の太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督。
 この提督に日本海軍は敗れました。


 このニミッツ提督が師と仰いでいたのは東郷平八郎元帥でした。
 日露戦争の直後、士官候補生だったニミッツは、
 米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。

 ニミッツは大戦後に次のように語りました。
 「私は海軍士官候補生の時、私の前を通った
 偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました。


 そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。
 東郷は私の師です。
 あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、
 小沢治三郎中将の艦隊を待ちうけていました。
 そして私は勝ったのです。
 東郷が編み出した戦法で日本の艦隊を破ったのです」


 戦後、ニミッツは日露戦争で東郷が乗艦した戦艦・三笠が、
 荒れ放題になっていることを聞き深く心を痛めました。
 三笠は日本の運命を救った船として永久に記念すべく、
 大正15年以来、横須賀に保存されていました。

 ところが第2次大戦後には東郷元帥までが
 軍国日本の悪しき象徴とされました。


 そして東郷元帥の乗艦した三笠は見るも無惨な扱いを受けたのです。
 大砲、鑑橋、煙突、マスト等は取り除かれ、丸裸になってしまいました。
 艦内では米兵相手の営業が行われ、
 東郷のいた司令長官室は「キャバレー・トーゴー」に変わり果てました。
 敗れた日本人は魂を失い、勝った米国人は奢りに陥っていました。

 ニミッツは嘆き悲しみました。
 彼は米国海軍に働きかけて資金をつくり、
 これを三笠の復元費として日本側に寄贈しました。


 また日本国内にも反省が起こり、
 昭和35年にようやく三笠は復元されました。
 その際、ニミッツは彼の写真と共に次の言葉を送りました。

「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、
有名な三笠を復元するために
協力された愛国的日本人のすべての方へ、
最善の好意をもってこれを贈ります。

東郷元帥の大崇拝者たる弟子 米国海軍元帥 C・W・ニミッツ」


イメージ 2

 大戦の際、東郷元帥をまつる東郷神社は、戦災で焼失しました。
 昭和39年、ニミッツは東郷神社が再建されることを聞くと、自分の写真と共に祝賀のメッセージを寄せて喜びを表しました。

「日本の皆様、私は最も偉大な海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます」

 ニミッツの死後、昭和51年、アメリカでは英雄ニミッツの功績を記念して
 「ニミッツ・センター」の設立が計画されました。
 その時センターのハーバード理事長は
 「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。

 東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。
また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、日本の姿も知らせたいと思います」
と協力を要請してきました。

 日本側は喜んでこれに応じました。
 そして資料のほか平和庭園と名付けた日本庭園を贈りました。
 こうしてニミッツセンターは日米を代表する英雄を記念する施設となったのです。

イメージ 4



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