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発展 『天皇は政治学を学べ-禁中並公家諸法度第1条の持つ意味-』 

日本史ノート


 発展 『天皇は政治学を学べ-禁中並公家諸法度第1条の持つ意味-』


野澤道生の『日本史ノート』解説 2015.12.26

 「天皇は治国平天下の学問を為さず、唯だ花鳥風月の学問を為し給うべしとの意にて受取るを、正しき解釈とせねばならぬ」

 これは、徳富蘇峰が、『近世日本国民史』の中で述べた『禁中並公家諸法度』第1条の解釈である。

 「天皇は政治にかかわる学問をせず、ただ自然の美しい風物やその赴きを楽しむ学問をせよと解釈しなければならない」

という意味となる。

 1615年、江戸幕府は『禁中並公家諸法度』を制定した。『禁中並公家諸法度』の条文は、どの教科書にも史料として掲載されているが、第1条は、ほぼ例外なく、

 天子諸芸能のこと、第一御学問なり

の部分のみである。そして、教科書によっては、

 「幕府は禁中並公家諸法度を定め、天皇には学問をすすめて政治から遠ざけるなど、朝廷の内部に規制を加えた。」(東京書籍『新選日本史B』平成24年版より)

 「禁中並公家諸法度を出し、天皇の生活や公家の家業・席次にいたるまで規制をくわえ、学問を学ぶことを天皇のもっともだいじな職務とし、天皇や朝廷を政治から遠ざけようとした。」(三省堂『日本史B』改訂版 旧課程版より)

と記されている。

 しかし、第1条の全文は次の通りである。

 天子諸芸能のこと、第一御学問なり、学ばずんばすなわち古道に明らかならず、しかるに政をよくし太平を致すはいまだあらざるなり、貞観政要明文なり、寛平遺誡に、経史を窮めずといえども、群書治要を誦習すべしとうんぬん、和歌は光孝天皇よりいまだ絶えず、綺語たるといえども、わが国習俗なり、棄ておくべからずとうんぬん、禁秘抄に載するところ、御習学専要に候こと

(直訳)天子が身に付けなければならない様々な技術・技能の中で、第一は御学問である。学ばなければ昔からの道理にくらくなり、それで政治をよくし、太平をもたらした事は、いまだかつてない。このことは『貞観政要』に明確に書かれており、『寛平遺誡』に、中国古典の儒学の書や歴史書をきわめなくともよいから、『群書治要』を読み習うべきだと記されている。和歌は、光孝天皇からいまだ絶えていない。美しく飾った言葉に過ぎないとはいえ、わが国の習俗である。捨て置いてはいけないと書いてある。『禁秘抄』に書き載せられていることを学ばなければならない

(意訳)天皇が身に付けるべき最も大切なものは、帝王としての政治学である。古来の優れた政治の例を学ぶことなくして、政治をよくし、天下太平をもたらすことができた例など未だかつてない。そのことは、理想的な徳治政治を行った太宗の本にも明記されており、宇多天皇も中国の儒学や歴史を究めなくてよいから、政治書を読めと言っている。和歌は、わが国の習俗であるから捨て置いてはいけない。天皇家の家訓である『禁秘抄』に書かれていることを、とにかく学べ。

『貞観政要』は、唐の太宗の政治に関する言行録である。この時代は、理想的な徳治政治の時代とされ、『貞観政要』は為政者のバイブル的な書物とされた。徳川家康が活字本を出版させたほどである。
『群書治要』は、その太宗が、中国の先秦から晋までの書物の中から政治の参考になる文章を抜粋させたものである。
『寛平遺誡(寛平御遺誡)』は、宇多天皇が当時13歳であった醍醐天皇への譲位に際して書き送ったものであり、天皇の心得や作法などの書であり、後の歴代天皇に尊重された。


 そして、『禁秘抄』は、言うまでもなく順徳天皇による有職故実の書である。受験日本史では、『禁秘抄』=有職故実=順徳天皇(のち上皇として承久の乱で敗れ、佐渡に配流)
ぐらいであろう。しかし、『禁秘抄』は、天皇自身が心得ておくべき故実作法を記した希少な書物として、後の代々天皇に、いわば天皇家の家訓として大切にされた。

 その『禁秘抄』に「第一御学問也」から始まる文章がある。そしてその内容は、『禁中並公家諸法度』第1条とまったく同じ文章なのである。
 つまり、『禁中並公家諸法度』第1条は、天皇家の家訓書である『禁秘抄』の丸写しであり、天皇や朝廷からしてみれば、幕府から押しつけられたというものではなかったし、まして天皇を政治から遠ざけようというものとは正反対であった

 ちなみに、『禁秘抄』で、天皇が身に付けるべきものの第1は学問であるが、第2は管弦であった。和歌はその次であり、大切にしろというよりは、原文どおり、わが国の習俗だから捨て置いてはいけないという程度である。(今でも皇族が楽器を嗜むのは、この影響もあるのではないかと思ったりする。)

 『禁秘抄』が書かれた時代は、承久の乱の時代であり、天皇は為政者として直接政治に関与していた。だから、天皇が政治学を学ぶことには現実的な意味があった。しかし、『禁中並公家諸法度』の時代の天皇は、もはや現実の政治に直接関与することはなかった。にも関わらず、なぜ幕府は天皇に政治学を学ぶことを求めたのか。

 それは、統治権を持っていなくても、幕府は天皇を帝王・日本の国王と見なしていたからにほかならない。武士たちも同様であった。このことは、後水尾天皇が突然譲位して明正天皇が即位することになった時、それを知った細川忠興が、「姫宮様がにならせられる」と記していることからもわかる。

 『禁中並公家諸法度』第1条が天皇に求めたことは、日本国の王として政治をよくし、天下太平をもたらすための帝王としての政治学を身に付けることであった。そして江戸時代であっても、天皇は自身が日本の王であるという自意識を持っていた。そのことは、飢饉に際しての天皇の願文などからもうかがえる。

 しかし、現実には、天皇がおかれた政治への関与は悲惨なものであった。

 ぼくとしては、高校日本史の教科書の中で、この第1条を含む『禁中並公家諸法度』の説明として最も優れていると考えるのは、旧課程版の東京書籍『日本史B』の記述である(先述した『新選日本史B』と同じ出版社)

 「幕府は、禁中並公家諸法度を定め、天皇に学問を第一とするなどの心がまえを説くとともに、公家の席次や昇進にまで規制を加えた。天皇が学ぶべき学問は政治の学であったが、実際に残された権限は、幕府の承諾を得て行う年号・暦の制定と、官位授与だけとなった。」


2015.12.26

(参考文献『江戸時代の天皇』藤田覚)r

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